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なぜ子どもたちは算数・数学が嫌いになるのか。本当は非常に面白く興味深い分野なので好きになってほしいのですが…。

実は小学校低学年では算数が好きと言う子供が結構います。

しかし、高学年になるにつれ観念的、抽象的、概念的な要素が含まれるようになると算数が嫌いになる生徒が増えるようです。

例えば、「10個のケーキを5人で分けるとき一人は何個のケーキがもらえるか」という問題はかなり具体的で日常の中でも似たような状況があり、問題を読んだだけで光景が浮かび場面が理解しやすい。
しかし、「30を5分の3で割りなさい」と言われてもどういう状況かさっぱり思いつかない。
状況が分からないから問題の意味や目的、やるべき理由が見つからず、単によく分からず難しいという印象だけ残る。
結果、算数が嫌になる。
更に悪いことに、そうでなくても分かりにくいのに時間制限がありゆっくり考えられないから、余計にできそうという自己肯定感も生まれない。
にも関わらず親や先生からは、「できて正解すること」だけを求められ、子供たちがどんな状況で何を思っているのかを分かってくれようともしない。
仕方ないから深く考えずに機械的にできる計算がせいぜいで、文章問題などは見る前にできないと決めつけ飛ばす。
当然、文章問題はやらないから永久に解けない。
本当に文章を読もうともしないし、理解しようともしません。
結果、余計に算数が嫌いになり、自分はできないという感情がより深く刻み込まれ、やる前から無理と諦めてしまう。

こんな感じで算数がきらいになります。

先ほども申したように、子供たちはもともと算数が好きです。
幼児のころの遊びは算数で満ち溢れています。
積み木やブロックで物の形を理解し、お菓子やおもちゃ、お友達を数え数というものを分かっていくようになります。
「5体の人形に服が3着ある。あと何着必要かな。」なんて風に知らず知らずのうちに足し算引き算をやっている。
なぜかとはうまく説明できなくても、感覚的に不足だったりあまりという概念が分かる。
このように誰に教わるでもなく生活の中で直感的に数学的なことを理解する力を「基礎数学力」と言います。
この時期は遊びと算数に境界はなく、小学校低学年では子供たちの本来持つ基礎数学力を発揮する機会が多いので、算数が好きな生徒が多いように思われます。

しかし、学年が上がり先ほど述べたようになると、子供たちは自分の持っている基礎学力を生かし、自分の理解と判断で算数に取り組む機会が減っていきます(特に機械的な計算)。
そうすると徐々に算数は自分にとって遠い存在となり嫌になっていきます。
つまり、計算が得意かどうかという問題ではないのです。

高学年になり算数が身近なものと感じられなくなり、しかもテストで高得点を取るためだけが目的となると、算数は好きとか嫌いと言う対象ではなくなり、嫌でもやらなければいけないことになります。
まあ、数学・算数はテストのためのものと割り切ってしまうのも一理あるかもしれませんが、それでは数学の奥深くにある面白さにはたどり着けませんし、テストさえ終わればいらないものということになってしまいます。
テストという狭いくくりの中ではいいのかも知れませんが、せっかく何年もかけて学ぶのに終われば捨ててしまうようではもったいない。
また、数学好きにはなれません。

では、どのような点に注意すれば数学好きになるのでしょうか。

やはり本人の自主性を尊重し、じっくり考えさせる時間を与えるのがベストです。
テストや受験などを考えると悠長にしてはいられないのは分かりますが、イライラするのをグッと踏みとどまって長い目で見てあげるのが大事です。
時間はかかりますが、ある時ふとわかる瞬間がある(A-haモーメント)。
これがあると理解は非常に深まりしっかり根付いた本物の知識となります。
そして、できたという喜びはこの上ないものとなり、次の課題へのチャレンジ精神を高め、自信をもって勉強に励むことができます。
スピードも大事ですが、しっかりと理解することができるようにするのも大事です。
ゆとりがなく急ぎたいのは分かりますが、長期的にみるとこれが堅実なのでしょう。
親や先生は考える時間をしっかり与え、自分の考えを押し付けず、ヒントや参考意見を述べ生徒の思考を促す役割(ファシリテーター)であることが望ましいと思います(この方法はアクティブラーニングにも通じるのですが)。
分からなければ子供と一緒に悩み考えるのがいいと思います。
一緒に悩むことで、子供には安心感と信頼が生まれます。

最近は技術が発達し、図形や立体はパソコンやタブレット端末を使っていろいろな角度から見たり自由に動かしたりできます。
今までは実際にモノを手に取って動かすか、頭の中で想像するしかなかったものが、具体的に目で見れるようになったので、これらを活用すると空間認知能力が上がり、楽しみながらやれるのでより身につきやすいようです。

そうでなくても何か記憶(思い出)に残るような強い刺激があると物事は覚えやすくなります。
人間の脳はそのものを覚えるより何かと関連付けて覚える方が得意です。
だから勉強するときに記憶に残るエピソードをたくさん作る工夫をすると学習が身につきやすいし、勉強を楽しめます。
もし保護者の方が一緒に勉強を見るのであれば、クイズのように聞いてみたり実際に身の回りのものを使ったり(粘土を切って断面図の勉強をするなど)と子どもが勉強を楽しめ、あっと言う発見ができ、思い出に残るように心がけてみてください。

子どもが勉強に取り組むようにするには。

子どもが勉強しなくて困るとよく相談されます。

親が勉強しなさいと言ってもなかなかやらない。
イライラして大声を上げると余計かたくなになって必死に抵抗する。
もう、こうなると勉強をするしないの問題ではなく、お互いさせるかしないかの維持の張り合いになります。
結局、親子ともども嫌な気分になり、勉強を無理強いできたとしても生産性が上がりません。
せっかく子供のためを思ってやらせても、本人の気が入らずやっても身につかないのなら、嫌な雰囲気になった分大損した気持ちになる。

こんな経験された方も多いと思います。
どうして子供は勉強をしたがらないのでしょうか。
また、どうすればやる気にさせることができるでしょうか。
ちょっと考えてみましょう。

子どもが自ら進んで勉強に取り組んてくれればいいのですが、嫌いな子供は本当に勉強を嫌がります。
その理由はいろいろありますが、第一は子供が勉強を嫌なものと思い込んでいることでしょう。
「勉強は嫌でもやらなきゃいけないの。」
「我慢してやりなさい。」
などと言うと勉強がより一層嫌でつまらないものと言う考えを逆に根付かせてしまいます。
「学校の勉強なんで社会に出てからは何の役にも立たない。」
「学校のテストでいい点を取らないといけないから勉強しなさい。
なんていう発言は子供に勉強する意味がないという印象を与えてしまいます。
日頃何気なくポロっと大人は口にしてしまいますが、子どもは結構聞いています。
勉強は嫌で役に立たないものだけど、無理やりやらされるつまらないもの。
子どもはより感情で動きます。
こうなると考えを改めるのは非常に難しいです。
だから、普段から大人は自分の発言が子供たちにどんな考えを抱かせるか注意しながら接しないといけません。
これは予防的見地からの指摘です。
親も自分が子供のとき、さんざん大人から我慢して勉強しなさいと精神論的忍耐を要求されつつ教育を受けてきたので仕方ないことでしょうが、効果ある方法とはいいがたいので気をつけましょう。

勉強を楽しむようにしましょう。
子どもはより自分の気持ちに素直です。
だから、楽しい、やりたいと思えば夢中になり率先して何でもやります。
そうすれば子どもは何でもみるみる吸収していきます。
好きこそものの上手なれとはよく言ったものです。
では、勉強を楽しいと思わせるにはどうすればいいのでしょうか。

ある学者が提唱した動機付け(やる気)を高める研究があります。
これによると、やる気を出させるには大きく四つのパターンがあるそうです。
それは「注意」「理由」「自信」「満足」だそうです。
これらが一つでもあるとやる気になるそうです。
もちろん多ければ多いほど勉強に対する楽しさが増します。

注意:子供たちに興味を持たせる、楽しいと気づかせること
理由:それをすべき納得できる分かりやすい理由があること
自信:不可能ではなく十分やれると思うこと
満足:やって心が満たされること

これらを子供たちが感じられるように接し方を工夫するといいかもしれません。
繰り返しますが、これらの要素が全てそろわないといけないわけではないので、一番できそうなものから挑戦してください。
一つがダメなら他のパターンでアプローチしてみてください。

子どもは生まれたときから勉強嫌いではありません。
幼い時は大人のやることに何でも興味を示し、やりたがります。
できないなんて最初から考えないで、自分も大人と同様にできると思っています。
そして、少しでもできればそれは大きな喜びとなり満足し自信を付けます。
そうなると夢中になって繰り返しどんどん上達していきます。

よく勉強させるのに理屈をこねる人がいますが、理性である程度自分をコントロールできる大人なら有効ですが、子どもはどうしても理屈で動かず、感情が先に来ることがあります。

理由を明確に示すのも大事ですが、それが反って子供たちの感情を抑え込み、苦痛を与えることになるかもしれません。
苦しいと思えば、子どもは逃避するのに全力となり勉強するしないの問題でなくなります。
こうなると埒が明かないので、子どもの接し方には工夫をし、様々な方法で子どもたちに近づけるようにしてください。

「勉強と気づかないうちに実はしていた」と言うのが理想なのでしょうか。
私も生徒に接しながら日々工夫と反省の日々です。
子どもたちの気持ちを察し、どのように導くのが最善か想像力を張り巡らして考えます。

もし、子どもの扱いでお悩みのご家庭がありましたら、気軽にご相談ください。
一緒に考え、子どもたちが生き生きと勉強するように努力したいと思います。

集団指導塾と個別指導塾のメリット・デメリット(その2)

先日お話した集団指導塾と個別指導塾のメリット・デメリットの続きです。
前回は主に集団指導塾についてお話したので、今回は個別指導塾についてお話します。

個別指導は一人の講師に対したいてい二人までを授業で見ます。
集団指導があらかじめ固定されたカリキュラムで進んでいくのに対し、個別指導ではそれぞれの状況に応じて柔軟に授業内容を変更することができます。
他の生徒の目をあまり気にしなくてもいいので気軽に質問できますし、指導も丁寧で親切、分かるまでとことん付き合ってくれることが多いです。
自分の苦手や身についていないことがあれば、ずっと遡って基礎からでもちゃんと教えてくれます。
そして、生徒一人ひとりの性格や状況に合わせて指導方法も変えてくれるし、様々なアドバイスや提案もしてくれます。

また、指導する側も自分の成果が直接生徒に現れるので、生徒のことを自分の問題として取り組む講師が多いです。
担当の生徒のことがよく分かるので何が問題か的確に分析でき、それに合わせて事前準備ができます。
それぞれの講師に与えられている裁量も多いので、より自由に講師の創意工夫が発揮できます。
身近な関係なので生徒一人ひとりへの情が強く、講師は無理をしてでも何とかしてあげたいと情熱をもって担当してくれます。

個々の状況に合わせるという点では、勉強が嫌いで全く意欲をなくした生徒や、逆にもっともっと学んで、より優秀な成績(家庭教師のような役割)を求める生徒にも向いています。さらに、部活や課外活動が忙しいから短時間に集中して勉強を見てもらいたい生徒にもいいでしょう。

柔軟性があり融通が利きやすいというのも個別指導の長所です。
例えば集団指導では決まったカリキュラムに従って授業を進めていかないといけなく、時間割も曜日ごとに固定されています。
欠席をしたときの抜けた授業の穴埋めは自分でやらないといけません。
また、部活などで塾の時間割に間に合わないときは、塾をあきらめるか部活をあきらめるかの選択を迫られることもあります。
個別指導であればそのような問題も起きにくいです。
休めば振替や補習を提供しれくれるところが多いですし、授業の予定も自分の空いている時間、生活リズムに合わせて決められます。

しかし、大学生などのアルバイトが担当していることも多く、その場合は講師の知識や経験、指導方法に未熟な点があるかもしれません。
もちろん知識と経験の豊富な専任の講師もいるので、そこは確認が必要です。
ただ大学生や若い講師だと歳も近いこともあり、似たような経験を共有しやすく、生徒がより心を開きやすいというメリットもあります。
だから、より現実的な話として講師の言葉が生徒の心に伝わりやすいこともあります。
少数の生徒に対応しているので、講師と生徒がお互いをよくわかりあい、強いきずなと信頼関係を築きやすいのも強みです。
ちょっとした生徒の変化に講師が気づきやすく、勉強に限らずいろいろなことを相談しやすい関係になることも多いです。
学校の先生や親には話しづらいことも、人生の頼れる先輩として話せるからです。
ただ、生徒と講師の距離感をうまく調整できる講師でないと、時には馴れ合いになり、生徒を単に甘やかすだけになるので注意が必要です。しかし、学校の先生や親にはできない役割を担えるというのは、子育てを考えたとき大きな利点ではあります。

集団指導と違い全体の中での自分の実力が即座に分かりにくく、ライバルによる良い意味でのプレッシャーがないので、成績を上げなければならないという切迫した緊張感を作りにくく、結果がすぐに出にくいこともあります。
成績を上げる以前に、まず勉強自体をするようになることが必要な場合は、第一段階としてそれでいいのかもしれませんが、やはり成果が見える形にしてあげるとより勉強の励みになります。
ここは講師の腕の見せ所でしょう。
それぞれの講師の考えもあり、すぐには結果を求められないこともあるでしょう。
そこは担当講師とコミュニケーションをしっかりとって、親御さんとしては担当講師の心積もりをよく理解する必要があります。

最後にやはり一番大きな問題は費用です。
どうしても一度に担当する生徒の人数が少ないので単価は集団指導より高くなります。
個々に合わせるなど集団指導にない、柔軟で内容の濃い授業の質と費用のバランスをどう考えるかが大切です。
大手では組織ということで会社の設定を外れた料金によるサービス提供はできませんが、私のような個人経営の小規模塾であれば、状況を配慮して柔軟に料金対応をしてくれるところもありますので、遠慮なくご相談いただくのがいいと思います。

以上、塾に関して集団指導と個別指導のメリット、デメリットを考えてみました。
それぞれの家庭の事情や生徒の置かれている立場を考え、どちらが良いか判断してもらえればと考えます。
しかし、いずれの場合も直接かかわる講師がどうなのかが一番の問題です。
どんなに優秀な講師でも相性というものがあり、どうしてもうまくいかない場合があります。
その講師の理念や指導方法をよく理解し、そして生徒本人がその講師のやり方を受け入れ信頼し努力できることが大事です。

そのためには講師と生徒、そして家庭の相互のコミュニケーションと理解が肝心と葛西TKKアカデミーは考えています。
多くの人が関わって、生徒の未来を明るいものにする。
その目的を達成するためのチームワークが大事だと信じています。
一人の人生を大きく左右する子育ては非常に大変です。だから、一人で問題を抱え込まず、外に救いの手を求め、様々な選択肢を試してください。

苦労を乗り越えて得たものは生徒にとっても親にとってもかけがえのないものになり、必ず報われますから協力して頑張りましょう。

先日、高校二年生から質問がありました。「普通科ではないですが、大学合格できますか。」「はい、今ならまだ可能性があります。」

先日、ある高校二年生から質問がありました。
「僕は専科なので普通科の授業を十分受けていません。でも大学受験をしてみたいのですが、合格できますか。」
お答えします。
「はい、今ならまだ可能性はあります。」

もちろん本人の現在の実力や頑張り、後、目標にする大学にもよるのですが、高校二年生の二学期であれば、冬休み、三学期、春休みにしっかり勉強して、1,2年生の基本的内容をきちんと身に付ければ、中堅私立大学ぐらいであれば合格できると思います。
しかし、これが3年生になってしまうと、一学期間だけで2年分の内容を身に付けるのは時間的に非常に厳しいと思います。
つまり、今が最後のチャンスです。

例えば、私立文系の大学であれば2教科(英国)または3教科(英国社、英国数)で受験ができるところが結構あります。
しかも、レベルとしては2年生までのものが多いので、3年の1学期までに1,2年の内容をしっかり学べば大丈夫です。
それまでに基礎を築ければ夏休みから本番を見越した応用や過去問に着手でき、2月の入試には何とか間に合う計算です。
もちろん学校の課題や試験もあるので大変でしょうが、合格したいのであれば頑張って両立しなければなりません。
日頃の生活リズムを見直し、計画的に勉強しないといけません。
この辺りに関しても葛西TKKアカデミーがしっかり相談にのり、一緒に計画を立てていきたいと思います。
一緒に悩み苦しみ、そして喜び合いましょう。

生徒が勉強したい、合格したいという志があれば、葛西TKKアカデミーは全面的に力になります。
その気持ちを大切にしたいし、夢を叶えさせてあげたいと思います。
そして、ここでの頑張りが将来を大きく変えてゆきます。
全ての生徒が希望ある未来に進んでもらいたい。

経済的なことなどいろいろ心配事や問題もあるでしょうが、「やりたい」という気持ちがあるのであれば、とりあえず相談に来てください。
可能な限り事情を理解し要望に応じるつもりです。
せっかく勉強したい気持ちがあるのに、勉強ができないのはとても不幸と私は考えます。
だから、ご相談ください。
できることは何でもしたいと考えます。
子供たちの将来は非常に大事ですから。

激震!大学入試での英語の民間試験利用が延期。言いたいことは多々あれど…。

昨日、文科大臣の方から大学入試における英語の民間試験導入ついて、「大臣として自信をもって、受験生の皆さんにお勧めできるシステムにはなっていないと判断せざるを得ません。」と言って、導入を2024年度まで延期することが決定されました。
実施一年前の突然の変更に大きな波紋が広がっています。

文科省が現在推し進めている教育改革はこれまでにない大規模なもので、小学校から大学まで全ての教育において大きな変更が決められています。
その中の目玉の一つが、大学入試の英語試験における民間試験の導入だったわけですが、これが延期になったことは教育改革にも大きな影を落とすのではないかと思います。

言いたいことは多々ありますが、今回はこの大学受験における英語の民間試験利用の問題に限ってお話したいと思います。

民間試験の導入のきっかけになったのは、教育改革においてこれからのグローバルな時代に活躍できる人材を育てるため、英語力の強化があげられました。
これまでの読み書き中心の英語教育ではなく、聞く話すも含めた四技能全体を強化する必要があると。
しかし、中学高校で授業に聞く話すも指導を充実するようにと言っても、受験で使わないあのであればどうしても後回しにされ、文科省も目論む結果にはならない。
そこで、大学受験にも「スピーキング(リーディング、ライティング、リスニングは一応これまでの試験で測られているので)」も試験の中に含めるようにしたい。

しかし、ここで文科省は今まで経験のないスピーキングテストをどのようにするか考えるのではなく、すでにスピーキングテストを行っている民間の試験に丸投げをしてしまったのです。
その方が効率的と思ったのでしょうか。
ここが混乱の始まり。
複数の目的も異なる英語の民間試験の結果を同率に捉え、英語の成績にしようということになりました。
言い換えれば、陸上の順位をつけるのに、短距離も長距離も走り幅跳びも砲丸投げも全部一緒にして順位を付けようというようなもの。
当然、一貫性は保たれず妥当性に大学、高校、保護者、受験生など多くの人々が疑問を呈しました。
また、民間試験の受験量は安くても一万円近くでとても高価、一応二回分の民間試験の結果を大学入試に使えるということですが、これは家庭の経済事情によって受験生間の差が広がることも指摘されました。
裕福な家庭は本番までに多く練習として受験ができるのに、貧しい家庭ではそれができない。
試験会場は大都市が中心なので、地方や離島の受験生が試験を受けに行くだけでも費用が掛かり、更に宿泊が必要な場合は経済的負担はもっと増える。
このように地域間の不公平も言われてきました。

他にも数多くの批判が指摘されていたにも関わらず、文科省は十分に詳しく丁寧で具体的な回答をしてきませんでした。
どう考えても公平性が最も重視される大学入試において、この制度の導入は不備があるのですが、文科省は2020年度の実施に踏み切る姿勢でした。
2020年と言うのはオリンピックイヤーで、ここで日本の教育改革を世界的にアピールしたかったのでしょうか。
教育としてその年に大学入試を変更しなければならない理由は全くないのですが、文科省は実施年度にこだわり決定事項として変更の考えはないとし、かと言って寄せられる声に対する回答を出せずに(出さずに)いました。

その場を濁して時が来れば試験がどのようなものであれやってしまえばいいと考えていたのでしょうか。
それで文科省の面子は保たれ、うまくいかなくても後日うまくいきませんでしたと言ってしまえばそれで終わり。
ゆとり教育のときのように。
その時に教育を受けた当事者のことは考えず、自分たちの体裁ばかり気にして。

念が近づき実施にあたりどうするのかという事柄に関しても、後手後手に回りいつまで経っても具体的な内容が見えてこない。
今年度に入り、教育関係者や受験生及びその家庭から不安の声がより一層高まる中、文科省は様々な問題に対する対策は講じられるし、世間からの理解も十分得られているという姿勢を貫き、来年度からの実施に変更はないと言い続けていました。
(例えば、高い受験料に関しては民間試験に対して受験料の減額をお願いしているとか、試験会場については高校大学の協力を呼び掛けているとか。仮にそのようになったとしても様々な問題が発生するのですが。)

挙句には、来年度からの実施で最初は不十分でもその後改善し精度の高い試験にしていくというような、受験生を実験台にするような発言も飛び出し、波紋はますます広がりました。

そして、文科省が受験生の立場に立っていないことを決定的に示したのが先日の文科大臣による「身の丈に合った」発言。
憲法や教育基本法に定めらえている文科省の役割を根底から覆すものとして、世間広くから批判を受けました。
さすがにこれはまずいと思ったのでしょう。
あらゆる違いを超えて平等に国民に教育を受ける権利を保障する役割を担うべきなのに、貧しいものは教育を受けられなくても仕方ないと言っているようなものだから。
大臣としては制度の不備、不公平をどのように改善するのかと聞かれ、妙案がないから新システムを正当化するために発言したのでしょうけど、これはひどすぎました。
国会でも野党だけでなく与党内からの批判もあり、昨日の発言と共に文科大臣は延期を決定したのです。
最近立て続けに二人の大臣が辞任し、更に文科大臣まで辞任になるのはまずいと思ったのでしょうか。
手のひらを返したようにあっさりと延期を決めました。

この「身の丈」発言がなければ、どんなに世間から批判されようとも英語の民間試験利用は予定通り実施されたと思います。
最初から真剣に子供たちのことを考え、彼らのための制度を作り、批判には真摯に対応して万全の体制が整うまで十分に準備してから実施していれば今回のような混乱はかなったでしょう。
そもそも「スピーキング」もテストしたいなら大学入試センターが独自の公平なテストを作成すればよかったのに、民間試験を複数導入したからややこしいことになる。
(民間との癒着、天下りなどがささやかれていますが。)

いずれにしても、誰のための教育改革なのでしょうか。
文科省は子供たちのことを見ていないとしか考えられない部分が非常に多い。
個人的にはこんな不公平で欠陥だらけの試験を子供たちがとりあえず受けなくて済んだのはほっとしているところです。
もちろん、文科省の言葉を信じてこれまで民間試験に向けて勉強してきた生徒や学校もたくさんあり、彼らにとってはやり切れない気持ちもあると思います。
ただ、ごり押しする混乱と取り下げる混乱を考えるならば、取り下げた方がまだましかなと思います。
それ以前に混乱は誰の目にも明らかなのだから、文科省がきちんと対応してればよかったのです。
本当に現場を見ないで理想ばかり(自分たちの視点のみで)物事を進めていくから困るのです。
これを機に文科省はより一層身を引き締めて、本当に子供たちのためになる教育システムを構築してもらいたいと切に願います。