塾長ブログ
2017.02.26
読解力の低下
最近の子供たちの声で気にかかったのは、「何を答えればいいか分からない。」「何を言っているのか分からない。」です。
つまり読解力、理解力の低下です。
それが分からなければ、どのように解けばいいかも分かりません。
この原因は何でしょうか。
以前、考える機会が減り、考える習慣がなくなってきていると話したことがあります。
ただ聞いている、ただ読んでいるでは頭の中に内容が入ってこず、右から左に抜けるだけです。
頭の中に留まれば、多少は考えるきっかけになるのですが、それすらないのです。
決して複雑な内容でなく、こちらがそれ以外に解釈のしようがないと思えることさえ分からないのです。
以前、こんな記事がありました。
「Alexは男性にも女性にも使われる名前で、女性の名Alexandraの愛称であるが、男性の名Alexanderの愛称でもある」
という文章を読ませ、
「Alexandraの愛称は( )である」
という文中の空欄を、
「(1)Alex、(2)Alexander、(3)男性、(4)女性」
の4語から選ばせたが、正解できたのは中学生の38%、高校生の67%にすぎなかった。
「週刊新潮」2017年2月2日号(新潮社)より抜粋
まさに驚くべき結果です。
むしろ間違える方が難しいのではないかと思いたくもなります。
この調査の詳細がないので詳しくは分かりませんが、例えば助詞による語句の関係が正確に理解できていない、文脈がつかめていないなど、原因はいろいろ考えられます。
確かに少々複雑な文章構成かもしれませんが、特に回りくどい表現というわけでもないと思います。
現場でよく目にするのは文を文字通り読まず、自分で勝手に変えて読んでしまうことです。
なんとなく読んで、自分の頭の中で自分の都合の良いように、文章を変化させて頭に入れるのです。
こちらが指摘すると、後で「おかしいな。なんだ。書いてあるじゃない。」と自分で口にしています。
本人も何でこのように読んでしまった分かりません。
つまり、解釈以前の問題で、文を正確に読めていないのです。
今も多くの教育機関が効率優先としてパターンプラクティスで学習を行っているが(ここではパターンプラクティスの効果に関する話は置いておいて)、そもそも問題を正しく捉えられなければ、パターンも正しく使えないのではないのでしょうか。
更に、1ページを超えるような長文(?)になると、とりあえず流して読んでいるだけで積極的に内容をつかもうとしないのです。
加えて内容が科学的なものなど、一見難しそうに思えるものであれば、取り掛かる前から白旗を上げ、読むことを放棄する。
残念ながらテストなので、成績を残すためには「答えない」という選択肢はない。
そうすると、生徒に残された抵抗手段は「どれにしようかな。」と天の神様にゆだねるか、鉛筆を転がして4分の1しかない、部の悪い賭けをするだけです。
そうなると先ほどの記事の結果も納得できます。
なぜこうなったのでしょうか。
結局、技術的発展が子供たちに考える機会を奪ったという、よくある結論に達するのでしょうか。
子供たちの置かれている環境を考えると、一概に否定はできないでしょう。
悪い意味で環境が整い、勉強がしづらくなっている気がします。
先生が言っていることを自分の頭の中で復唱してみる、文章を読むときに「なぜ。」「どうして。」「ここはこういうことか。」と自問自答してみる。
これだけでも内容理解は格段に上がってきます。
是非、頭を使うことに慣れましょう。
考えることを止めると、人に騙されるか、いいように使われて損をするので、子供たちにはそうならないように気を付けてほしいです。
テストよりも大事な、人生の教訓です。