塾長ブログ
2022年03月
2022.03.01
勉強ができるようになりたくない子供たちの理由
生徒が「実は勉強ができるようになりたくないのではないか。」という話をしました。
実際に生徒と接すると、「勉強ができるようになる」よりも「勉強ができないままでいい」と(無意識的に?)考えている節が見受けられます。
「勉強しないと高校に入れず、中卒では仕事がないから勉強しないといけない。」などと言いつつ一向に勉強しない生徒がいます。
そして、よくよく話を聞いてみると、彼らなりの損得勘定がそこにはあり、前言のような困った事態が訪れることを知りつつも、改善に向けて動けないようです。
言い換えるとその損得勘定が勉強しないことを正当化し、彼ら自身で勉強しない言い訳になり、だから彼らは「自分は勉強しなくてもいいんだ」と自己弁護を許すのです。
では、勉強からの逃避を正当化する彼らの計算、理由は何なのでしょうか。
実はそこには誤解(わざと?)が潜んでいます。
勉強ができるようになると、もっと多くの、そして難しい問題をやらされる(勉強できない方が気が楽)
第一の勉強ができるようになりたくない理由としては、「勉強ができるようになるともっと勉強させられる」というものです。
今は勉強ができないから勉強内容も簡単なものばかりだし数も多くしなくていい。
でも、できるようになるともっと難しい問題をやらされるし、量も増えてしまう。
それは嫌だから現状のできないままでいい。
今のままの簡単で楽な勉強に留まりたいという願望が込められています。
しかも、これにはもっと高度な勉強についていく自信のなさもうかがえます。
このような心理で、勉強を頑張ってできるようにならなければいけないと分かりつつも、不安で行動できないと考えられます。
しかし、これには大きな誤解があります。
人間は学べばこれまで以上の勉強でも簡単にできるようになるということです。
例えば、一元一次方程式は中学校に入って習ったばかりの時はとてつもなく難しく感じられたと思います。
しかし、中三にもなると難なく解けるようになります。
このように人間は成長し能力も上がってくるので、例えより高度な問題になったとしても、そして問題量が多くなったとしても、以前より簡単にこなすことができるようになります。
いずれにしても自分の能力を上げていかなくてはならず、受験等を考えると初級レベルに留まることはできません。
ならば、「自分はやれる」と信じて、腹をくくって勉強してみるのです。
案外大したことなく問題が解けるようになります。
むしろ、自分の能力の向上に伴い勉強も相対的に簡単にに感じられるので、いつまでも低いレベルで簡単な問題しかやらないよりも楽かもしれません。
自分が勉強できないのは生来のもので、それは努力しても改善しないから勉強はやっても無駄
第二の考え方は「頭の良し悪しは生まれたときに決まっているので、勉強してもできるようにはならない」というものです。
自分は不運にも優れた脳をもっていないので、勉強はいつまで経ってもできるようにならず、生まれながらの素質がないので勉強はやっても無駄だ。
頭いい生徒はすぐにできるけど、自分はいくらやってもできるようにならない。
これは持って生まれたスペックの違いなので、自分のせいではない。
だから、勉強は頑張っても仕方がない。
確かに天才的に頭がよく、勉強でいつも好成績を残す生徒もいますが、それはむしろ少数派で、多くの生徒はそれなりに努力し自分を高めているのです。
それを見ないで、自分の言い訳の都合の良い例外的な生徒を引き合いに出して、自分はそうじゃないから駄目だというのは少し自分勝手な論かもしれませんね。
「今まで頑張ったけどできなかった」と言いますが、たいていはできるようになるまで努力せず、一回か二回やって出来なかったらあきらめているようです。
一発でできなければもうできないと結論付けてしまうのは早計です。
根気がなく十分な努力をする前に結果を求めるのは生徒に限らず、大人や現代の社会がゆとりなくスピードばかりを要求することにも関連があるかもしれません。
「できるようになるまで頑張る」という視点が欠けて、自分はやった(確かにやりはした)と主張するのは単なる自己弁護にすぎません。
勉強ができないことを「生まれつき」としてしまうことで、「できない現状は変更が効かない」からやらないことを正当化し、しかも、その責任は自分ではないという責任回避の意味合いも含まれています。
実は人間は他のどの動物より成長・変化できる動物であり、途中で投げ出さなければ大抵の勉強はできるようになります。
言い逃れをする前に、チャレンジをし、できるようになるまであきらめない、そんな気持ちをもってほしいです。
学校で習う一般的な勉強はだいたい誰でもできるようになります。
困難を乗り越えてできる経験をしたら、勉強の成績が上がるだけでなく、勉強そのものが楽しくなります。
だから、それを信じて目の前にある壁を乗り越えてください。
サポートが必要な時は葛西TKKアカデミーもあります。
勉強はやればできるようになるものです。
面倒くさいことは罪悪で、だから面倒くさい勉強はやらなくていい
生徒たちがよく言う口癖に「面倒くさい」があります。
何をするにも面倒くさい。
ノートを取るのも問題を解くのも面倒くさい。
面倒くさいことは嫌い、もしくはやらなくていいという思考が彼らの中にはあるように思えます。
これは現代の風潮がそうであり、彼らもそのような風潮を肌で感じ、体に染みついたからそう言うのかもしれません。
便利で簡単なことが一番。
面倒くさいことは悪で、それを解消することが生活を豊かにする。
そうやって「面倒くさい」を毛嫌いし、敵視する傾向があると言えるでしょう。
そういう意味では彼らも時代の申し子なのかもしれません。
ところがこの「面倒くさい」を否定する風潮は、勉強を考えるとき非常な障害になります。
なぜなら、勉強は「面倒くさい」ものだからです。
「面倒くさい」からこそ、人は考え、創意工夫や試行錯誤をして学んでいくのです。
簡単なこと、できることしかしなければ、人間の脳は十分な刺激が得られる、神経細胞のネットワークを広げることはできません。
だから、こんな時代に生きる彼らは、ある意味可哀想かもしれません。
学びにくい時代。
考えなくても、パソコンを開けばすぐに正解を出してくれる。
自分の脳を使う必要はない。
ここで彼らのロジックの問題点は、「面倒くさい」から「勉強はしなくていい」となっているところです。
確かに社会的風潮から、「面倒くさい」は「悪」だから、「面倒くさい勉強」も「悪」なのでやらなくていい、という筋もなくはないでしょう。
でも、本当に「面倒くさい」は「悪」であり、「面倒くさい勉強」は「しなくていい」としかならないのでしょうか。
ここに彼らの論の欠点があります。
「面倒くさいから勉強はしない」ではなく、「面倒くさいからこそ勉強はする」のです。
そもそも「面倒くさい」は「時間と手間がかかる」というだけで、「できない」や「やらない」につながる言葉とは限りません。
(確かに「時間と手間がかかる」を敵視して、そこにビジネスチャンスを求める動きもありますが)
元々「面倒くさい」勉強は、時間と手間をかけて解いていく点にこそ深い学びが生まれます。
そして、その学びが自身を高めてくれます。
勉強においては「面倒くさいからやらない」こそが「悪」なのです。
「面倒くさい」と「できるできない」「やるやらない」は別物です。
以上、三点ほど触れましたが、他にも彼らなりの計算と勉強をしないことを正当化する言い訳はあるでしょう。
特に勉強嫌いの生徒は勉強しないことが最重要ミッションとなり、あれやこれや理屈をこねて自分の考えが最もらしいように主張し、勉強を回避することに最大限の努力をします。
(だから、勉強嫌いになってしまうと余計な労力が必要となり面倒なので、勉強を嫌いにさせないことが最善策になるのですが。)
皆さんも勉強しない子供に対していろいろ言っても、なんだかんだ言い負かされて、最後は強引に勉強を仕向ける、または「もう知らない」と投げ出すといった経験があるのではないでしょうか。
子供と大人の中間にあたる時期、まだまだ子供なのに妙に大人びたもっともらしいことを言われ、反論できず言葉に詰まったこともあるのではないでしょうか。
子供は意外とよく考えていますし、よく見ています。
時には大人の痛いところを突いたりもします。
だからと言って、大人の立場と権力を押し付けるのは、教育としては必ずしも良いとは言えません。
よって、注意すべき点の一つとして、大人としては何を言われようとも頭に血が上らないように、常に冷静を心がけ、子供を一つ上の俯瞰で見られるよう心にゆとりをもって、大きな器で接しましょう。
これも難しいことですが、先ずは心がけることが大切です。
もう一つは、子供にいろいろ話させ、彼らの手の内を出させて、それを落ち着いて分析し対応することです。
すぐに適切な対応が浮かばないときは、焦らずいったん話し合いを打ち切って、時間を置いて考え、再び話し合いをするといいでしょう。
彼らが何を考え、何を狙い、どうしてそのように思うのか、彼らの立場に立って想像すると理解もしやすくなります。
彼らの心のうちが捉えられれば、彼らの言動も納得でき、(未知の状態で対応するよりは)より良い対応ができます。
親の立場としては子供に勉強させたい。
でも、子供も同様の方向に向かっていない場合は、心労が絶えず、ストレスもたまり精神的にもイライラして、自分もその周りの家族も空気が悪くなってしまいがちです。
でも、これは誰のためにもなりません。
先ずは、親が冷静に子供の立場に立って、彼らの気持ちをくみ取るところから始めましょう。
子育ては難しく未知で苦労の連続です。
困ったときは、他の人と話し合い意見やアドバイスを求めるのが非常に良い手です。
子育ては一人でしょい込まないで、みんなで協力してやるのが本来の姿です。
葛西TKKアカデミーも相談にのりますから、遠慮なくお声を掛けていただければと思います。
2022.03.01
勉強ができるようになりたくない子供たち
生徒たちは学校で、家庭で、毎日のように勉強に励んでいます。
「勉強ができるようになって良い成績を取りたい。」「親が言うから。」「特に理由はないが、それが当たり前だから。」など、勉強をする理由や目的は人それぞれでしょう。
でも、全ての生徒が勉強ができるようになりたいと思っているかというと、どうもそうではないようです。
多くの生徒と関わっていると、中には勉強ができるようになることを怖がっている、できないままでいたいと思っている(意識的にせよ無意識的にせよ)ように見える生徒もいます。
「勉強すれば人生全て上手くいくから、子供には頑張ってほしいし、きっとわかってくれる。」
このような考えが本当に正しいのでしょうか。
そこには大人のエゴがあり、子供たち(特に思春期の)の中には、はそんな自分たちの都合を押し付けてくる大人に反感を抱き反発する者も現れるでしょう。
彼らなりの道理があり、自分にとって今、どうするのが一番利益があるのかという計算があるようで、結果、勉強ができるようになりたくないという選択肢を選ぶ生徒がいる可能性を感じています。
勉強ができた方がいいのは分かっているけど、本人が意図的にそうなろうとしない。
難しい問題です。
大人たちへの不信と自我の芽生え
なぜ大人が示す「勉強すれば人生が開けるから、勉強ができるようになった方がいい」という考え方に従って、勉強を頑張ろうとしない生徒たちがいるのでしょうか。
これは自分の中に、自分なりの正論が芽生えているからでしょう。
人生経験の少ない彼らにとって、世界は未知であふれています。
まだ知らないこともたくさん。
でも、ある程度人生を生きてきて、部分的に分かることも多くなっています。
そして、自我の発達と共に自分なりに世界を見、自分の中に己の世界(不完全な世界ですが)を構築しつつあります。
客観的にはまだまだ小さい世界ですが、彼らにとっては全てです。
だから、自分はある程度の知識はあり、大人の言うことが本当かどうか判断する力がある(それが正しい判断かどうかは別として)と考えます。
これは自我の確立につながる大事なステップであり、人間の成長において通るべき道なので、決して悪いことではありません。
こうして出来上がった未熟な、でも全てである彼らの世界において、何が自分にとって最善で得かを考えます。
そこで生まれる様々な選択肢の中には当然「勉強ができるようにならない方がいい」という選択肢もあり、時にはそれを選ぶこともあるでしょう。
それは色々な誤解と思い込みにより生じる誤った選択です。
(どうして誤解や思い込みをするのかについては、後日、(その二)としてまた議論します。)
子供の誤り(?)を正すには
子供たちの判断が望ましくないとき、大人が無理やり自分の主張を押し付けるのはよくありません。
大事なのは相手が理解できるように導き納得させる話し合い。
ということは、話し合いのできる環境を確保しなくてはなりません。
もし、親子でそのような状況にない時は、話し相手は親である必要もないと思います。
子供にとって一番信頼できる人がすればいいでしょう。
ところで、話し合いにおいて、相手のことをまだ十分に考えることのできない子供は、こちらの気持ちもお構いなくズバズバ言ってくるかもしれません。
しかし、それをまともに受けてイライラしたり、癇癪を起してはいけません。
相手を包み込む広い心で、大人の余裕を感じさせるくらい、器量の大きさを相手に見せつけなければなりません。
(はったりでもいいから堂々として、内心おどおどしていることが悟られないように。)
そうでないと、子供はすぐに器の小ささを見破り、大人を侮るようになります。
そして、やり方としては先ず、相手の理屈や理由を聞いてあげることです。
そうして子供たちの立場、考えを把握する。
そうするとこちらもどのように対応すべきか分かってきます。
相手の立場が分かれば同じ目線に立てます。
そうして考えると、子供たちがなぜそう思うのかが見えてきます。
こうすると「何でこの子はそんなことするのか、そんなこと言うのか」が理解できるようになります。
子供と同じ方向に向き合ってから、少しずつ一緒にじっくりと方向転換を促してください。
そうすると正面から衝突することもなく、子供も納得してこちらの希望する道を進むようになるでしょう。
更に、先に相手に話させるのには別の利点もあります。
それは、先手を取らせることでこちらの手の内を見せる前に相手の手の内が分かるということ。
これによって、話し合いで優位に立てます。
誤解のないように言いますが、「優位に立つ」というのは相手を力任せに引っぱるという意味ではありません。
相手が何を考えているか分からず、心の余裕をなくしてイライラすることを抑制できる、つまり、心にゆとりを持って相手に接することができるという意味です。
このような対処で、勉強できるようになりたくない生徒を変えることができるでしょう。
少し長くなってきましたので、この続きは後日書きます。
そこでは、生徒たちが「勉強をできるようになりたくない」と考える誤解に基づいた損得計算について話したいと思います。
お楽しみに。
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