塾長ブログ
2024年11月
2024.11.18
インフルエンザ予防を!受験生は注意しないと入試が受けられないかも!
受験生は受験勉強も本格的になってきていることと思います。
今月下旬には都立高校入試のスピーキングテストが実施され、受験がより一層現実味を帯びてきました。
ところで、勉強も大事ですが、受験生にとって最も注意しないといけないのが健康管理です。
特にこれからの季節はインフルエンザが流行し、一見落ち着いたように見えるコロナウィルスも完全になくなった訳ではないので、より一層の予防と対策が必要となってまいります。
そこで今回はインフルエンザに焦点を絞って、その対策を考えてみましょう。
一般の生徒もそうですが、この時期にインフルエンザを最も注意しなければならないのは受験生です。
勉強が滞るだけでなく、試験日と重なれば受験できないということも考えられます。
もしインフルエンザにかかってしまうと一週間は自宅で療養しないといけないからです。
これまでの努力が水の泡になってしまいます。
このようなことは絶対に避けなければなりません。
だから、少しでも危ないなと思えば無理をせず、早目に薬を飲んで安静にしましょう。
ひどくなる前にお医者さんに診てもらいましょう。
もちろん予防が一番大切です。
予め注意して日常生活を送ることで、インフルエンザ感染リスクを大きく下げることができます。
インフルエンザの予防と注意点
1.マスクをする
自分がインフルエンザにかかった場合はもちろんですが、予防という意味でもマスクをしましょう。
インフルエンザには飛沫感染もありますので、マスクは口や鼻からウィルスを吸い込むのを防げます。
喉を潤す効果もあり、感染を防ぐ硬貨が高まります。
2.手洗いとアルコール殺菌
インフルエンザのもう一つの感染経路は接触感染です。
だから、手洗いは重要です。
ウィルスは水やアルコールに弱いので、これは有効な手段です。
外出から戻ったとき、トイレから出たときなど、こまめに手を洗いましょう。
また、とってやパソコンなど人が触れるところもこまめにアルコールで拭いて殺菌をするといいです。
3.加湿器などで湿度を上げる
ウィルスは湿度に弱く、湿度が50%を超えると活性が落ちるそうです。
加湿器で室内の湿度を上げるとウィルスの予防になりますし、喉を乾燥から防ぎ潤いを与えるので、喉を守ることにもなります。
加湿器がなければ、濡れたタオルを干すだけでも違います。
4.やはり体力は重要
勉強で寝不足になると免疫力が落ち、インフルエンザにかかりやすくなります。
十分な食事を取らないで栄養が不足しても風邪にかかりやすくなります。
受験で忙しい時こそ、規律ある生活を心がけましょう。
5.家に閉じこもりっぱなしにならないで、適度に外に出て、日の光を浴び軽い運動をしましょう
部屋にずっといると気分が滅入ってしまい、精神衛生上よくありません。
外の空気を吸って、頭をスッキリさせるといいでしょう。
日光を浴びると免疫力も上がるし、軽い運動で血行もよくなりストレス発散になります。
ただし、人ごみに入ると風邪をもらう可能性があるので、不必要に人が大勢いるところに行くのはやめましょう。
インフルエンザにかかったなと思ったらすぐにお医者さんのところに行きましょう。
適切に対処して早く治し、再び勉強に取り組めるようにしましょう。
風邪の引き始めは水分補給とビタミンなどの栄養補給をしっかりしてください。
ワクチン注射をまだしていない人も、いないよりはましなので、今からでも受けた方がいいでしょう。
未だコロナウイルス感染が報告される中で、受験生はインフルエンザの感染にも注意しないといけません。
病気になってしまうと何もできなくなってしまうので、あえて感染しやすくなるようなことはしないでください。
大切な時期に感染してテストが受けられないことのないように、最後まで気を抜かないで頑張りましょう。
2024.11.10
好きは大事、でもそれだけでは困り(その一)
以前、算数好きな生徒がいて、好きな算数を勉強する機会をどんどん与えたことで、今の学年以上の算数の問題も解けるようになったという話をしたことがあります。
彼は算数が好きで、自分から問題を次々といて、親もそれを理解し尊重し、彼の算数の能力を伸ばすためにチャンスを与えることを惜しみませんできた。
最終的には、同学年の生徒よりもずっと上の級の数検も合格しました。
このように「好き」や「楽しい」は生徒の能力を飛躍的に伸ばしてくれる起爆剤になります。
しかし、そこに焦点を当てすぎるのも実は問題があるのです。
本日は、「好き」なことをする注意点を議論したいと思います。
「好き」なこと「楽しい」ことは最高の結果をもたらす⁉
好きなこと、楽しいことならいつまでも集中して続けられる。
夢中になって、気がついたらいつのまにか何時間もたってしまったという経験をしたことがあると思います。
逆に、嫌なことはなかなか手がつかず、「早く終わらないか」と時間ばかり気になってチラチラと時計を見るが一向に進まない。
「まだこんなに時間があるのか」とため息をついたことはありませんか。
好きなこと楽しいことは集中して効率よく進むのに、嫌なことはダラダラやって生産性が非常に悪い。
だから、「好き」や「楽しい」ということは大切なのです。
勉強においても「好き」であれば、周りから言われなくても自分から進んで机に向かい、教科書をどんどん読んで問題を解いて、結果良い成績を導き出す。
そして、良い結果が励みとなりより一層勉強を楽しくする。
こうして正の連鎖が生まれれば、生徒に良い効果がもたらされます。
「好き」なことをやって、精神的に楽しく幸福な状態であれば、心にもゆとりができ苦手なものにも取り組むことができるようになります。
そして、苦手も克服できれば最高の結果を残すことができます。
勉強に限らず、スポーツや習い事においても、多くの家庭や教室で「好き」、そしてこれに関連した「楽しい」がとても大切にされます。
好きなことをやって、楽しい人生が送られればなんと幸せなことでしょう。
このようなプラスの効果に着目し、現在の教育は「勉強を楽しく」することを重視しています。
これはこれで間違っていないのですが、実はそこには落とし穴があるのです。
不幸な事実
「好きなこと」「楽しいこと」を重んじる教育は素晴らしいのですが、それが「嫌なこと」や「辛いこと」を避ける教育になると問題です。
なぜなら楽しいことばかりやって毎日を過ごせればいいのですが、残念ながら現実はそうではないからです。
現実には「嫌なこと」「辛いこと」がたくさんあり、私たちはそれらと折り合いを付けながら生活をしていかなくてはなりません。
若いうちから「嫌なこと」「辛いこと」から逃げてばかりいると、そのようなことに出会ったときの耐性が育たなくなります。
小さな「嫌なこと」「辛いこと」のうちから慣れて、それを乗り越える経験を積んでいけば、将来より大きな「嫌なこと」「辛いこと」に出会ったとしても、その人はある程度対処可能です。
しかし、子どものうちからそのような試練から逃げ、苦しいことを乗り越える力が育っていない人は、大きくなって避けられない「嫌なこと」「辛いこと」に直面したとき、現実が厳しすぎて絶望で耐えられなくなります。
そして、その人にはこれまでと同じように「逃げ」しか選択肢がないように思われるのです。
実際に生徒たちを見ると…
受験生を見ているとよく分かるのですが、それまでその場をごまかし勉強を逃げてきた生徒は受験の重圧に耐えられない場合が少なくありません。
自分の実力を伸ばして困難を乗り越える努力をするという考えが浮かばず、浮かんだとしてもそれは自分には当てはまらないと考えます。
困難が異様に大きく感じ、挑戦する前から無理と決めつけ、戦う前に白旗を挙げてしまうのです。
苦労をするくらいなら逃げ出した方が楽。
そして、現状の実力で進める道を選びこじんまりと収まろうとします。
これはある意味賢いと見なすこともできますが、人間として成長段階にある若者がこんなに早く自分の限界を決めてしまっているのは非常にもったいない気がします。
自ら可能性を狭め、自分を伸ばす努力をしないのは楽なことかもしれませんが、せっかく苦労して手に入れられるものを失うことの大きさを考えると正しい選択とは思えません。
「好きなこと」「楽しい」を重視する教育が「好きなこと」「楽しい」だけの教育であれば疑問です。
真に子どもたちの成長を考えるならば、「好きなこと」「楽しい」以外のことも取り組めるように指導することが望ましいと考えます。
先ほど「好きなこと」「楽しい」を突き詰めればゆとりができ苦手克服にもつながると述べましたが、そこまでのゆとりが生まれる段階に到達するには、生徒たちの時間が少なすぎるのです。
今の生徒たちはいろいろな意味で忙しく、結果としてこの方法がうまくいくのは非常に稀です。
別の線引き「やるべきこと」と「やらなくてもいいこと」
「好き」や「楽しい」に焦点を当てるやり方の何が問題なのでしょうか。
「好き」や「楽しい」だけの教育は、いわば生徒を楽園に閉じ込めるようなもので、いずれ大きくなって楽園を出て荒々しい現実に生きるすでを授けていないという点ではないでしょうか。
生徒が喜んで好きなことに励んでいれば、教える方も楽しいですし、指導も素直に聞いてくれるので非常に楽です。
でも、教える側にとって楽だからと言ってそれだけで終わってしまっては、生徒の将来に対して無責任と言わざるを得ません。
教える側も苦労するでしょうし、生徒たちも楽しくはないかも知れませんが、それでも「好き」や「楽しい」以外のことも取り組めるようにしないといけません。
それが現実だから。
「好き」や「楽しい」以外のことはやらなくてもいいと生徒が勘違いしないよう注意が必要です。
つまり、教育においては「好きなこと」と「嫌いなこと」も大事ですが、「やるべきこと」と「やらなくてもいいこと」という線引きが重要ではないでしょうか。
両者を同一視するのではなく、「嫌いなこと」でも「やるべきこと」はやらなくてはならないという考え方です。
人間は「失敗」や「非効率なこと」「面倒なこと」や「困難なこと」から学ぶことが多く、好き嫌いでこれらのことを避けるということは学習の機会を失っているということでもあります。
文章の途中ですが、少々長くなってしまいましたので、今回はここで一旦終わります。
続きは後日掲載しますので、お楽しみに。
教育や子育ては非常に難しく一般化しにくいテーマではありますが、葛西TKKアカデミーはこれからもこれらの事柄について考え続けたいと思います。
皆様も「このようなやり方があるよ」という方は、気軽にコメントいただけるとありがたいです。
それでは今回はここまで。
2024.11.04
「老いる」ということ
こういう仕事としていると、職業柄いろいろな文章を読まなくてはなりません。
生徒に指導するに当たり、日本語、英語を含めいろいろなジャンルを読むことになります。
その中で先日、ある小説の一部を授業で扱いました。
それは祖母と孫娘の交流と描いていたのですが、その中で次のようなことが書かれていました。
祖母が最近は何をやろうとするにも疲れてしまい、なかなかできないと話すと、孫娘も自分もそんなときがあると答えました。
朝、起きなければいけないけど、どうしても起きたくなくて起きられないと。
しかし、祖母はそれと自分の言っていることは違うと。
孫娘はやろうと思えばできるけど、ただ面倒くさかったり怠けたかったりしてしないだけ。
でも、祖母の場合は違う。
やりたくてもガソリンがないような、エネルギーが空っぽになってしまったような感じと。
今回はこの話を読んで、私が考えた他愛のない話をしたいと思います。
「老いる」ということ
人間誰もが歳を取ります。
そして、歳を取ったらどんな感じなのか話を聞いて想像することはできても、実際にその年齢になるまでは実感できないものです。
(若者が大人の話を理解しにくいのは、このように実際にその立場になってみないと実感できないことも一因でしょう)
かく言う私もそうなのですが、この話を読んだとき「なるほど、歳を取るとはそういうものなのか」と納得してしまいました。
若いうちは元気いっぱいで、疲れても一晩寝れば翌日にはまた元気になれる。
多少の無理をしても、何とかやれる。
でも、歳を取るとだんだんそのようなこともできなくなってくる。
そのときに「歳のせい」とよく口にします。
確かに加齢と共に体に様々な変化が現れます。
太りやすくなったり、白髪になったり、ものが見えにくくなったり。
これらは否定しようのない身体的事実で、「老い」を表すものの一つでしょう。
しかし、このように考えることもできるのではないでしょうか。
確かに身体的変化、衰えは否めないが、何かしようとするとき「歳のせい」と言ってできないとするのは「老い」を言い訳にしているだけだと。
「老い」と言えば無理をしなくてもすむし、人より楽をしても咎められない。
そして、それに甘んじて「老い」を認めた方が若くいようとするより得に思えてくる。
結果、気持ちが「老い」を受け入れ、体も「老い」てくる。
確かに高齢者であっても、活発で元気な人はいます。
見た目が年齢からは信じらえないくらい若い人もいます。
そして、大概そのような人は気持ちが若い。
つまり、「老い」は本人の気持ちの持ちようである程度コントロールできるのはないでしょうか。
本当はできるのに加齢の事実が、「老い」を言い訳にすることを許し、無理しない言い逃れを可能にする。
そうやって「老い」を理由に若い頃にやっていたことをどんどんしなくなる。
すると体も心もますます老けて、老化が加速するように思えます。
こうして人間は老いていくように感じられます。
何のために「老いる」のか
こう考えると人間は自ら自分を「老いる」ように、意図的に選択しているように思えます。
本来は何年も何十年も長生きできるのに、気持ちで「老い」を言い訳にし、行動を「老い」にし、それが気持ちをさらに「老い」させる。
この「老い」のスパイラルによって、寿命を縮めているように感じられます。
では、なぜ人間は「老い」を言い訳にし、「老い」を進めてしまうのでしょうか。
事故や病気がなくても人間は例外なく死にます。
それは避けられない運命です。
いくら気持ちを若く保ち、心身ともに元気で長生きしようとも、いつかはこの世を去らなくてはなりません。
若者のように未来に希望を持ち、活力に満ちた状態で死を迎えるとしたらどのような気持ちになるでしょうか。
現世に執着し、この世界から己の存在が消滅してしまうことへの恐怖が増大するかも知れません。
怖くて怖くて毎日を「死」の恐怖の中で生きなくてはなりません。
そうすると、人は安らかな「死」を迎えることができなくなるでしょう。
それはある種の不幸です。
そうならないために、人間は「老い」るのではないでしょうか。
「老い」を利用にして、人生を諦める理由を作り、やがてやって来る「死」を受け入れる準備をしている。
最初に触れた小説の祖母の言うような「エネルギーが空っぽ」では本当はないのかも知れない。
もっと若く活発に長生きできるかもしれない。
それでもそう思い込むことによって、現世の執着を捨てあの世への旅たちの準備をするために、本能的に人間は「老い」を言い訳にして、自分を「老けさせる」のではないでしょうか。
そうして次世代へバトンを渡せるように。
「読書」を意識的に
先ほども述べた通り、仕事柄いろいろな文章を読む機会が多く、様々な話題に触れることも多いです。
国語の文章だけでなく英文や、歴史や地理、科学などいたるところに文章があります。
その中で、生徒に指導するためだけでなく、多くのことを考え理解するきっかけが得られることは有難いことだと感じます。
これらの文章に出会っていなければ考えもみないこともたくさんあります。
そういう意味では、(別に塾での勉強のためだけでなくてもいいですが)多様な文章を意識的に読むことはとても大切なことだと思います。
普段から「別に勉強のためだけでなくてもいいから、どんなことでも分け隔てなく多読することは大事だ」と指導しています。
それはテストなどの問題を解くためだけでなく、読解力を高め知識を増やし、論理的思考を訓練し自己表現と相互理解を深めるためには重要なことだからです。
人間どこで得られた知識が役に立つかも知れません。
知識や知恵は多い方がいいですし、そのために面倒くさがることなく日頃から読書の癖を身に付けてほしいです。
正直、かく言う私も読書は得意ではないですが、努めて文章を読んでいろいろ考えたいと思います。
今回は偶然出会った小説の一部から「老い」を考えてみました。
自分の中で思考を巡らせた他愛のない話でした。
「死」は誰も避けることのできない運命であり、そのために「老い」があるのではと考えました。
あくまでも個人的な見解であって、正しいとか正しくないという話ではありませんのであしからず。
また、このような思考の展開は職業上よくあることですが、いずれにしてもそのきっかけとなる読書は、誰もが欠かさないでほしいと思います。
勉強に関係あるなしに関わらず。
これから夜長のシーズンです。
ぜひ読書で有効に過ごしてください。
- 1 / 1