塾長ブログ
2024.11.04
「老いる」ということ
こういう仕事としていると、職業柄いろいろな文章を読まなくてはなりません。
生徒に指導するに当たり、日本語、英語を含めいろいろなジャンルを読むことになります。
その中で先日、ある小説の一部を授業で扱いました。
それは祖母と孫娘の交流と描いていたのですが、その中で次のようなことが書かれていました。
祖母が最近は何をやろうとするにも疲れてしまい、なかなかできないと話すと、孫娘も自分もそんなときがあると答えました。
朝、起きなければいけないけど、どうしても起きたくなくて起きられないと。
しかし、祖母はそれと自分の言っていることは違うと。
孫娘はやろうと思えばできるけど、ただ面倒くさかったり怠けたかったりしてしないだけ。
でも、祖母の場合は違う。
やりたくてもガソリンがないような、エネルギーが空っぽになってしまったような感じと。
今回はこの話を読んで、私が考えた他愛のない話をしたいと思います。
「老いる」ということ
人間誰もが歳を取ります。
そして、歳を取ったらどんな感じなのか話を聞いて想像することはできても、実際にその年齢になるまでは実感できないものです。
(若者が大人の話を理解しにくいのは、このように実際にその立場になってみないと実感できないことも一因でしょう)
かく言う私もそうなのですが、この話を読んだとき「なるほど、歳を取るとはそういうものなのか」と納得してしまいました。
若いうちは元気いっぱいで、疲れても一晩寝れば翌日にはまた元気になれる。
多少の無理をしても、何とかやれる。
でも、歳を取るとだんだんそのようなこともできなくなってくる。
そのときに「歳のせい」とよく口にします。
確かに加齢と共に体に様々な変化が現れます。
太りやすくなったり、白髪になったり、ものが見えにくくなったり。
これらは否定しようのない身体的事実で、「老い」を表すものの一つでしょう。
しかし、このように考えることもできるのではないでしょうか。
確かに身体的変化、衰えは否めないが、何かしようとするとき「歳のせい」と言ってできないとするのは「老い」を言い訳にしているだけだと。
「老い」と言えば無理をしなくてもすむし、人より楽をしても咎められない。
そして、それに甘んじて「老い」を認めた方が若くいようとするより得に思えてくる。
結果、気持ちが「老い」を受け入れ、体も「老い」てくる。
確かに高齢者であっても、活発で元気な人はいます。
見た目が年齢からは信じらえないくらい若い人もいます。
そして、大概そのような人は気持ちが若い。
つまり、「老い」は本人の気持ちの持ちようである程度コントロールできるのはないでしょうか。
本当はできるのに加齢の事実が、「老い」を言い訳にすることを許し、無理しない言い逃れを可能にする。
そうやって「老い」を理由に若い頃にやっていたことをどんどんしなくなる。
すると体も心もますます老けて、老化が加速するように思えます。
こうして人間は老いていくように感じられます。
何のために「老いる」のか
こう考えると人間は自ら自分を「老いる」ように、意図的に選択しているように思えます。
本来は何年も何十年も長生きできるのに、気持ちで「老い」を言い訳にし、行動を「老い」にし、それが気持ちをさらに「老い」させる。
この「老い」のスパイラルによって、寿命を縮めているように感じられます。
では、なぜ人間は「老い」を言い訳にし、「老い」を進めてしまうのでしょうか。
事故や病気がなくても人間は例外なく死にます。
それは避けられない運命です。
いくら気持ちを若く保ち、心身ともに元気で長生きしようとも、いつかはこの世を去らなくてはなりません。
若者のように未来に希望を持ち、活力に満ちた状態で死を迎えるとしたらどのような気持ちになるでしょうか。
現世に執着し、この世界から己の存在が消滅してしまうことへの恐怖が増大するかも知れません。
怖くて怖くて毎日を「死」の恐怖の中で生きなくてはなりません。
そうすると、人は安らかな「死」を迎えることができなくなるでしょう。
それはある種の不幸です。
そうならないために、人間は「老い」るのではないでしょうか。
「老い」を利用にして、人生を諦める理由を作り、やがてやって来る「死」を受け入れる準備をしている。
最初に触れた小説の祖母の言うような「エネルギーが空っぽ」では本当はないのかも知れない。
もっと若く活発に長生きできるかもしれない。
それでもそう思い込むことによって、現世の執着を捨てあの世への旅たちの準備をするために、本能的に人間は「老い」を言い訳にして、自分を「老けさせる」のではないでしょうか。
そうして次世代へバトンを渡せるように。
「読書」を意識的に
先ほども述べた通り、仕事柄いろいろな文章を読む機会が多く、様々な話題に触れることも多いです。
国語の文章だけでなく英文や、歴史や地理、科学などいたるところに文章があります。
その中で、生徒に指導するためだけでなく、多くのことを考え理解するきっかけが得られることは有難いことだと感じます。
これらの文章に出会っていなければ考えもみないこともたくさんあります。
そういう意味では、(別に塾での勉強のためだけでなくてもいいですが)多様な文章を意識的に読むことはとても大切なことだと思います。
普段から「別に勉強のためだけでなくてもいいから、どんなことでも分け隔てなく多読することは大事だ」と指導しています。
それはテストなどの問題を解くためだけでなく、読解力を高め知識を増やし、論理的思考を訓練し自己表現と相互理解を深めるためには重要なことだからです。
人間どこで得られた知識が役に立つかも知れません。
知識や知恵は多い方がいいですし、そのために面倒くさがることなく日頃から読書の癖を身に付けてほしいです。
正直、かく言う私も読書は得意ではないですが、努めて文章を読んでいろいろ考えたいと思います。
今回は偶然出会った小説の一部から「老い」を考えてみました。
自分の中で思考を巡らせた他愛のない話でした。
「死」は誰も避けることのできない運命であり、そのために「老い」があるのではと考えました。
あくまでも個人的な見解であって、正しいとか正しくないという話ではありませんのであしからず。
また、このような思考の展開は職業上よくあることですが、いずれにしてもそのきっかけとなる読書は、誰もが欠かさないでほしいと思います。
勉強に関係あるなしに関わらず。
これから夜長のシーズンです。
ぜひ読書で有効に過ごしてください。