塾長ブログ
2019.11.08
集団指導塾と個別指導塾のメリット・デメリット(その2)
先日お話した集団指導塾と個別指導塾のメリット・デメリットの続きです。
前回は主に集団指導塾についてお話したので、今回は個別指導塾についてお話します。
個別指導は一人の講師に対したいてい二人までを授業で見ます。
集団指導があらかじめ固定されたカリキュラムで進んでいくのに対し、個別指導ではそれぞれの状況に応じて柔軟に授業内容を変更することができます。
他の生徒の目をあまり気にしなくてもいいので気軽に質問できますし、指導も丁寧で親切、分かるまでとことん付き合ってくれることが多いです。
自分の苦手や身についていないことがあれば、ずっと遡って基礎からでもちゃんと教えてくれます。
そして、生徒一人ひとりの性格や状況に合わせて指導方法も変えてくれるし、様々なアドバイスや提案もしてくれます。
また、指導する側も自分の成果が直接生徒に現れるので、生徒のことを自分の問題として取り組む講師が多いです。
担当の生徒のことがよく分かるので何が問題か的確に分析でき、それに合わせて事前準備ができます。
それぞれの講師に与えられている裁量も多いので、より自由に講師の創意工夫が発揮できます。
身近な関係なので生徒一人ひとりへの情が強く、講師は無理をしてでも何とかしてあげたいと情熱をもって担当してくれます。
個々の状況に合わせるという点では、勉強が嫌いで全く意欲をなくした生徒や、逆にもっともっと学んで、より優秀な成績(家庭教師のような役割)を求める生徒にも向いています。さらに、部活や課外活動が忙しいから短時間に集中して勉強を見てもらいたい生徒にもいいでしょう。
柔軟性があり融通が利きやすいというのも個別指導の長所です。
例えば集団指導では決まったカリキュラムに従って授業を進めていかないといけなく、時間割も曜日ごとに固定されています。
欠席をしたときの抜けた授業の穴埋めは自分でやらないといけません。
また、部活などで塾の時間割に間に合わないときは、塾をあきらめるか部活をあきらめるかの選択を迫られることもあります。
個別指導であればそのような問題も起きにくいです。
休めば振替や補習を提供しれくれるところが多いですし、授業の予定も自分の空いている時間、生活リズムに合わせて決められます。
しかし、大学生などのアルバイトが担当していることも多く、その場合は講師の知識や経験、指導方法に未熟な点があるかもしれません。
もちろん知識と経験の豊富な専任の講師もいるので、そこは確認が必要です。
ただ大学生や若い講師だと歳も近いこともあり、似たような経験を共有しやすく、生徒がより心を開きやすいというメリットもあります。
だから、より現実的な話として講師の言葉が生徒の心に伝わりやすいこともあります。
少数の生徒に対応しているので、講師と生徒がお互いをよくわかりあい、強いきずなと信頼関係を築きやすいのも強みです。
ちょっとした生徒の変化に講師が気づきやすく、勉強に限らずいろいろなことを相談しやすい関係になることも多いです。
学校の先生や親には話しづらいことも、人生の頼れる先輩として話せるからです。
ただ、生徒と講師の距離感をうまく調整できる講師でないと、時には馴れ合いになり、生徒を単に甘やかすだけになるので注意が必要です。しかし、学校の先生や親にはできない役割を担えるというのは、子育てを考えたとき大きな利点ではあります。
集団指導と違い全体の中での自分の実力が即座に分かりにくく、ライバルによる良い意味でのプレッシャーがないので、成績を上げなければならないという切迫した緊張感を作りにくく、結果がすぐに出にくいこともあります。
成績を上げる以前に、まず勉強自体をするようになることが必要な場合は、第一段階としてそれでいいのかもしれませんが、やはり成果が見える形にしてあげるとより勉強の励みになります。
ここは講師の腕の見せ所でしょう。
それぞれの講師の考えもあり、すぐには結果を求められないこともあるでしょう。
そこは担当講師とコミュニケーションをしっかりとって、親御さんとしては担当講師の心積もりをよく理解する必要があります。
最後にやはり一番大きな問題は費用です。
どうしても一度に担当する生徒の人数が少ないので単価は集団指導より高くなります。
個々に合わせるなど集団指導にない、柔軟で内容の濃い授業の質と費用のバランスをどう考えるかが大切です。
大手では組織ということで会社の設定を外れた料金によるサービス提供はできませんが、私のような個人経営の小規模塾であれば、状況を配慮して柔軟に料金対応をしてくれるところもありますので、遠慮なくご相談いただくのがいいと思います。
以上、塾に関して集団指導と個別指導のメリット、デメリットを考えてみました。
それぞれの家庭の事情や生徒の置かれている立場を考え、どちらが良いか判断してもらえればと考えます。
しかし、いずれの場合も直接かかわる講師がどうなのかが一番の問題です。
どんなに優秀な講師でも相性というものがあり、どうしてもうまくいかない場合があります。
その講師の理念や指導方法をよく理解し、そして生徒本人がその講師のやり方を受け入れ信頼し努力できることが大事です。
そのためには講師と生徒、そして家庭の相互のコミュニケーションと理解が肝心と葛西TKKアカデミーは考えています。
多くの人が関わって、生徒の未来を明るいものにする。
その目的を達成するためのチームワークが大事だと信じています。
一人の人生を大きく左右する子育ては非常に大変です。だから、一人で問題を抱え込まず、外に救いの手を求め、様々な選択肢を試してください。
苦労を乗り越えて得たものは生徒にとっても親にとってもかけがえのないものになり、必ず報われますから協力して頑張りましょう。
2019.11.06
先日、高校二年生から質問がありました。「普通科ではないですが、大学合格できますか。」「はい、今ならまだ可能性があります。」
先日、ある高校二年生から質問がありました。
「僕は専科なので普通科の授業を十分受けていません。でも大学受験をしてみたいのですが、合格できますか。」
お答えします。
「はい、今ならまだ可能性はあります。」
もちろん本人の現在の実力や頑張り、後、目標にする大学にもよるのですが、高校二年生の二学期であれば、冬休み、三学期、春休みにしっかり勉強して、1,2年生の基本的内容をきちんと身に付ければ、中堅私立大学ぐらいであれば合格できると思います。
しかし、これが3年生になってしまうと、一学期間だけで2年分の内容を身に付けるのは時間的に非常に厳しいと思います。
つまり、今が最後のチャンスです。
例えば、私立文系の大学であれば2教科(英国)または3教科(英国社、英国数)で受験ができるところが結構あります。
しかも、レベルとしては2年生までのものが多いので、3年の1学期までに1,2年の内容をしっかり学べば大丈夫です。
それまでに基礎を築ければ夏休みから本番を見越した応用や過去問に着手でき、2月の入試には何とか間に合う計算です。
もちろん学校の課題や試験もあるので大変でしょうが、合格したいのであれば頑張って両立しなければなりません。
日頃の生活リズムを見直し、計画的に勉強しないといけません。
この辺りに関しても葛西TKKアカデミーがしっかり相談にのり、一緒に計画を立てていきたいと思います。
一緒に悩み苦しみ、そして喜び合いましょう。
生徒が勉強したい、合格したいという志があれば、葛西TKKアカデミーは全面的に力になります。
その気持ちを大切にしたいし、夢を叶えさせてあげたいと思います。
そして、ここでの頑張りが将来を大きく変えてゆきます。
全ての生徒が希望ある未来に進んでもらいたい。
経済的なことなどいろいろ心配事や問題もあるでしょうが、「やりたい」という気持ちがあるのであれば、とりあえず相談に来てください。
可能な限り事情を理解し要望に応じるつもりです。
せっかく勉強したい気持ちがあるのに、勉強ができないのはとても不幸と私は考えます。
だから、ご相談ください。
できることは何でもしたいと考えます。
子供たちの将来は非常に大事ですから。
2019.11.02
激震!大学入試での英語の民間試験利用が延期。言いたいことは多々あれど…。
昨日、文科大臣の方から大学入試における英語の民間試験導入ついて、「大臣として自信をもって、受験生の皆さんにお勧めできるシステムにはなっていないと判断せざるを得ません。」と言って、導入を2024年度まで延期することが決定されました。
実施一年前の突然の変更に大きな波紋が広がっています。
文科省が現在推し進めている教育改革はこれまでにない大規模なもので、小学校から大学まで全ての教育において大きな変更が決められています。
その中の目玉の一つが、大学入試の英語試験における民間試験の導入だったわけですが、これが延期になったことは教育改革にも大きな影を落とすのではないかと思います。
言いたいことは多々ありますが、今回はこの大学受験における英語の民間試験利用の問題に限ってお話したいと思います。
民間試験の導入のきっかけになったのは、教育改革においてこれからのグローバルな時代に活躍できる人材を育てるため、英語力の強化があげられました。
これまでの読み書き中心の英語教育ではなく、聞く話すも含めた四技能全体を強化する必要があると。
しかし、中学高校で授業に聞く話すも指導を充実するようにと言っても、受験で使わないあのであればどうしても後回しにされ、文科省も目論む結果にはならない。
そこで、大学受験にも「スピーキング(リーディング、ライティング、リスニングは一応これまでの試験で測られているので)」も試験の中に含めるようにしたい。
しかし、ここで文科省は今まで経験のないスピーキングテストをどのようにするか考えるのではなく、すでにスピーキングテストを行っている民間の試験に丸投げをしてしまったのです。
その方が効率的と思ったのでしょうか。
ここが混乱の始まり。
複数の目的も異なる英語の民間試験の結果を同率に捉え、英語の成績にしようということになりました。
言い換えれば、陸上の順位をつけるのに、短距離も長距離も走り幅跳びも砲丸投げも全部一緒にして順位を付けようというようなもの。
当然、一貫性は保たれず妥当性に大学、高校、保護者、受験生など多くの人々が疑問を呈しました。
また、民間試験の受験量は安くても一万円近くでとても高価、一応二回分の民間試験の結果を大学入試に使えるということですが、これは家庭の経済事情によって受験生間の差が広がることも指摘されました。
裕福な家庭は本番までに多く練習として受験ができるのに、貧しい家庭ではそれができない。
試験会場は大都市が中心なので、地方や離島の受験生が試験を受けに行くだけでも費用が掛かり、更に宿泊が必要な場合は経済的負担はもっと増える。
このように地域間の不公平も言われてきました。
他にも数多くの批判が指摘されていたにも関わらず、文科省は十分に詳しく丁寧で具体的な回答をしてきませんでした。
どう考えても公平性が最も重視される大学入試において、この制度の導入は不備があるのですが、文科省は2020年度の実施に踏み切る姿勢でした。
2020年と言うのはオリンピックイヤーで、ここで日本の教育改革を世界的にアピールしたかったのでしょうか。
教育としてその年に大学入試を変更しなければならない理由は全くないのですが、文科省は実施年度にこだわり決定事項として変更の考えはないとし、かと言って寄せられる声に対する回答を出せずに(出さずに)いました。
その場を濁して時が来れば試験がどのようなものであれやってしまえばいいと考えていたのでしょうか。
それで文科省の面子は保たれ、うまくいかなくても後日うまくいきませんでしたと言ってしまえばそれで終わり。
ゆとり教育のときのように。
その時に教育を受けた当事者のことは考えず、自分たちの体裁ばかり気にして。
念が近づき実施にあたりどうするのかという事柄に関しても、後手後手に回りいつまで経っても具体的な内容が見えてこない。
今年度に入り、教育関係者や受験生及びその家庭から不安の声がより一層高まる中、文科省は様々な問題に対する対策は講じられるし、世間からの理解も十分得られているという姿勢を貫き、来年度からの実施に変更はないと言い続けていました。
(例えば、高い受験料に関しては民間試験に対して受験料の減額をお願いしているとか、試験会場については高校大学の協力を呼び掛けているとか。仮にそのようになったとしても様々な問題が発生するのですが。)
挙句には、来年度からの実施で最初は不十分でもその後改善し精度の高い試験にしていくというような、受験生を実験台にするような発言も飛び出し、波紋はますます広がりました。
そして、文科省が受験生の立場に立っていないことを決定的に示したのが先日の文科大臣による「身の丈に合った」発言。
憲法や教育基本法に定めらえている文科省の役割を根底から覆すものとして、世間広くから批判を受けました。
さすがにこれはまずいと思ったのでしょう。
あらゆる違いを超えて平等に国民に教育を受ける権利を保障する役割を担うべきなのに、貧しいものは教育を受けられなくても仕方ないと言っているようなものだから。
大臣としては制度の不備、不公平をどのように改善するのかと聞かれ、妙案がないから新システムを正当化するために発言したのでしょうけど、これはひどすぎました。
国会でも野党だけでなく与党内からの批判もあり、昨日の発言と共に文科大臣は延期を決定したのです。
最近立て続けに二人の大臣が辞任し、更に文科大臣まで辞任になるのはまずいと思ったのでしょうか。
手のひらを返したようにあっさりと延期を決めました。
この「身の丈」発言がなければ、どんなに世間から批判されようとも英語の民間試験利用は予定通り実施されたと思います。
最初から真剣に子供たちのことを考え、彼らのための制度を作り、批判には真摯に対応して万全の体制が整うまで十分に準備してから実施していれば今回のような混乱はかなったでしょう。
そもそも「スピーキング」もテストしたいなら大学入試センターが独自の公平なテストを作成すればよかったのに、民間試験を複数導入したからややこしいことになる。
(民間との癒着、天下りなどがささやかれていますが。)
いずれにしても、誰のための教育改革なのでしょうか。
文科省は子供たちのことを見ていないとしか考えられない部分が非常に多い。
個人的にはこんな不公平で欠陥だらけの試験を子供たちがとりあえず受けなくて済んだのはほっとしているところです。
もちろん、文科省の言葉を信じてこれまで民間試験に向けて勉強してきた生徒や学校もたくさんあり、彼らにとってはやり切れない気持ちもあると思います。
ただ、ごり押しする混乱と取り下げる混乱を考えるならば、取り下げた方がまだましかなと思います。
それ以前に混乱は誰の目にも明らかなのだから、文科省がきちんと対応してればよかったのです。
本当に現場を見ないで理想ばかり(自分たちの視点のみで)物事を進めていくから困るのです。
これを機に文科省はより一層身を引き締めて、本当に子供たちのためになる教育システムを構築してもらいたいと切に願います。
2019.11.01
来年度から小学校でプログラミングが必修化されます。しかし、誤解もあるようなので少しご説明します。
文科省の進める教育改革に伴い、勉強の内容が大きく変化します。
その中の一つに、小学校でのプログラミングの必修化があります。
しかし、このプログラミングに関して多くの保護者の方々が誤解をしているようなので、本日はその点に関してお話したいと思います。
文科省から小学校でのプログラミングの必修化が発表されて、多くの家庭では大変慌ててプログラミング教室に通わせないと学校の授業についていけないのではないかと思われたようです。
「自分たちが小学生だった時にはなかったことで、どうすればいいのか全く分からない。」
「プログラミングと言うと自分でプログラミング言語を使って市販されているようなソフト(ゲームなど)やアプリを作らなくてはならないのではないか。こんな難しいこと子供たちができるのだろうか。」
「算数とかなら自分が教えられるけど、プログラミングなんて全然わからない。」
このように不安に思っている保護者は非常に多いと思います。
文科省の発表があって以来、民間の塾が新しくプログラミングの授業を提供したり、プログラミング教室が次々とできて、そこに多くの子供たちを通わせている親が少なくないという事実からも分かります。
そうしないと学校の授業についていけず、我が子の成績が大きく下がってしまうのではないかと考えてしまうのも無理はありません。
プログラミングの必修化について多くの方が誤解されている点として、必修化とは言ってもプログラミングが教科になるわけではないということです。
国語や算数のように一つの教科となって成績がつくわけではありません。
学習活動においてプログラミングを活用する機会を必ず設けるという程度で、プログラミングそのものだけで成績を付けるという訳ではないのです。
実際に教科書を見ても算数や理科の一部にプログラミングに関する内容がありますが、あくまでも一部であってそれが全てではありません。
それ以外の部分、例えば国語や社会などプログラミングが出ていなくても、現場の工夫でプログラミングを活用することは推奨されていますが、必須ではありません。
プログラミングを通して子供たちの学習に対する関心を高め、論理的思考などを養う新しいツールとしての導入であり、プログラミングが得意ではないから成績がいきなり大きく下がるということはありません。
イメージとしては体育にダンスが導入されたときや、学習活動として英語が入ってきたときのようなものと思っていただいていいでしょう。
プログラミングに必ず触れなくてはなりませんが、その度合いは現場に依存しているので、学校によってその深度はまちまちになると思います。
私立など資金的にゆとりがあれば外部の専門家を招きより高度な授業が行えるかもしれませんが、そうでなきれば担任がやるしかありません。
いくら研修を受けるとしても、教師が全員十分なプログラミングの知識を習得するとは限らないので、場合によっては教科書を一度授業中に読むだけで終わりということもあり得るでしょう。
また、学校によってハードやソフトの充実度も違います。
生徒全員にパソコンやタブレット端末が行き届く学校もあれば、クラスに数台しかない学校もあるでしょう。
パソコンも中古の古いものかもしれませんし、OSも昔のものかもしれません。
自分の通う学校がどの程度のプログラミング教育を提供できるのか把握する必要があるでしょう。
更に、先ほども述べましたが、プログラミングは学習を深めるための道具であって、プログラミングのできるプログラマーを育成しようという訳でもありません。
ゼロからプログラムを組んでゲームソフトなどを作ろうという訳ではありません。
プログラミングの基礎的な考え方を理解する入門編のようなものです。
学校の授業でできる範囲の内容しかやりません。
だから、プログラミング教室に行って専門的な知識を学ばなくてはいけないという訳でもありません。
もちろん、子供が興味を持ち、より深く学びたいというならそれでもいいですし、今回の必修化が子供の関心を広げたという副次的な効果は評価できるでしょう。
でも、それは各家庭がサッカーのクラブチームに通わせたり、ピアノ教室に通わせたりするのと同じようなものと考えていいと思います。
プログラミング教室に通わないから駄目だと悲観的になる必要はないでしょう。
プログラミングと言う親の世代が経験したことのない内容が必修化されるということで、多くの保護者の方は慌てるかもしれませんが、私はそれほど焦る必要はないと考えます。
プログラミング教室などは各家庭の判断で決めていただいて結構でしょう。
学校の先生方も実はプログラミングに関しては、それほどあたふたしていないようです。
現場の裁量が認められているので、自分の能力と環境に合った程度の授業を提供すればいいからです。
むしろ教科化された英語や道徳の方が先生方にとっては問題のようです。
こちらは定められた内容をきちんとやらないといけないからです。
例えば、英語などはこれまで教えた経験のない先生が多く、どうしていいか分からないから自分が学んだ中学の経験をもとに授業を行うかもしれません。
しかし、これでは中学の内容が早まっただけで、文科省の目標とする英語教育とは異なってしまいます。
子供たちは柔軟な適応能力があるので、学校の様々な変化に比較的うまく対応できます。
むしろ問題は先生方を始めとする大人たちの方で、新たな内容についていけないかもしれません。
少し話がそれましたが、結論としてはプログラミングの必修化に関してはそれほど心配する必要はないということです。
状況をしっかり見て、それからどうするかを考えても遅くないと思います。
現在行われている教育改革はこれまでにないほど多岐にわたり教育が変わることになります。
いろいろ戸惑うこともあると思います。
先入観で判断せず、正確な情報を集め対応してもらいたいと思います。
葛西TKKアカデミーも変化に対応できるように頑張ります。
2019.10.24
大学受験の英語民間試験の利用、538の四年制大学が参加。しかし、その実態は…。
2020年度から大学受験が大きく変わります。
センター試験に代わり大学入試共通テストになります。
これまでと違い、国語や数学などに記述問題が含まれたり、単に知識の有無を問うのではなくこれまでに学んだことを総動員して答えを類推しなければならない問題が出たりするそうです。
これまでに試行テストを行ってきましたが、どのような問題にするかは未だにはっきりと表れてきていません。
その中でも今最も問題になっているのが英語の民間試験利用です。
文科省は英語の四技能(読む、書く、聞く、話す)の全てを試験の対象とすべきとして、スピーキングテストの実績のなる民間試験を共通テストに当て、大学入試センターが提供するテストには英語がなくなることになっています。
しかし、しばらくは移行期間として民間試験に加えて大学入試センターも英語の試験を実施し、大学は民間試験を受験生に課すのか、センター提供の試験のみでいいのか、その両方を併用または選択するのか決め、その決定に従って受験生は試験を受けることになります。
この民間試験の利用に関して、多くの大学では公平性に疑問であり、入試試験として妥当かという問題からなかなかこの決定が出ませんでした。
各大学が相互に様子を見あい、他校の決定をうかがってから決めようとしていました。
結果、受験生にとっては受験の一年前になってようやく自分は英語の試験をどのように受けなければならないかが分かる事態となりました。
民間試験を受ける場合、英語の試験は共通テストのはるか前に受けることになり、英語の受験までは実質一年もないことになります。
本当に受験生にとって十分な準備ができるとは言えずは困った事態です。
文科省の通達もあり、先日、2020年度の入試に関してようやく大学各校が利用の有無について発表しました。
その結果は四年制大学539校が英語の民間試験を利用することにしたようです。
政府の意向から例え公平性に疑問を持っていても、導入しないことによるペナルティを恐れたのかもしれませんが、割と多くの大学が参加することになりました。
しかし、導入すると言っても民間の英語の試験結果で英語の成績を全て決めるという大学は少なく、一部の学部や学科において導入するというものが多いです。
また、民間試験の成績を英語の点数に加点するという処置をしたり、みなし満点にしたり、民間試験利用を出願要件にしたりと、その利用方法は大学によって異なります。
民間試験の成績で英語の点数に上乗せするなどは、これまでも私立大学で行われていたことで、これらの大学にとっては今まで通りで特に大きな変化になっていません。
また全学部ではなく一部学部に導入するということで、文科省の受け入れた形にしつつ、問題のある民間試験の本格利用を回避してごまかしているようにも見えます。
英語の民間試験利用はその問題点を多く指摘されているにもかかわらず、文科省は明確な回答をしてこず、また有効な手立てを提示すらしていません。
しかし、2020年度からの実施という決定は覆すつもりはないようです。
延期または中止にすると反って混乱するし、不安は払しょくされているとの立場です。
また、来年度の実施状況を見ながら試験制度をブラッシュアップするとも話しています。
この点に関しては実施反対の声も多く、十分に理解が得られているとはいいがたいように思えますし、まるで来年度の受験生を実験台にしているような発言もどうかと感じます。
これまで大学入試で制度の変更がある場合は2年前には明確に新システムを明確に公表し、不備が認められる場合は導入の延期もありました。
今回のような強行は極めて異例で、本当に生徒のことを考えているのか疑問に感じます。
恐らく裏の事情があるのではないかと勘繰りたくもなります。
いずれにしても葛西TKKアカデミーとしてはどのような制度になるにせよ、生徒が最大限に準備をし精一杯受験に臨めるようにサポートするだけです。
混乱のなか、生徒、保護者ともども不安だと思いますが、頑張ってください。
葛西TKKアカデミーはいつでも皆さんの味方です。
2019.10.22
書籍紹介 『こども六法』。法は社会で学びますが、子供たちにより分かりやすく、そしてより深く学ぶのに最適!更にこの本には秘められた願いが。
本日ご紹介する書籍は山崎聡一郎著、『こども六法』(弘文堂)です。
法律関連の本としては異例の大ヒットを記録しています。
法は中学の社会で勉強しますが、憲法の基本的な仕組み、代表的な条文、後、いくつかの法律の名前と簡単な内容だけです。
せっかく法に興味を持ち自分で読んでより深く学びたいと思っても、生徒たちには分かりにくい文言の集まりになっています。
その要因となっているのが、その独特な言い回しと用語。
およそに日常では使わない言葉ばかり。
一から専門用語をきちんと学び理解し、小難しい表現を正確に読み取らないといけません。
法は扱う内容が込み入って、しかも、いくつかの法がお互いに関連して成り立っているのに、これらの要因が更に難しい印象を与え、生徒たちが手を付けにくくなっています。
一度読んでもすぐに頭に入ってこないから敬遠してしまう。
こうやってせっかく興味を持っても、法は一般的には理解できない、専門家だけのものという考えに至り、私たちの周りで常に関わりがあるのに自分には触れられないものとなってしまっています。
この『こども六法』は小中学生でも読め理解できるようにという立場で書かれた本です。
専門家だけでなく読者となる子供たちにも意見を求め、内容に工夫を凝らしています。
難しい漢字には仮名がふられ、法律用語には解説がついて、イラストも使って分かりやすく書かれています。
「被告人と被告はどう違うの?」などという学校で勉強してふと思った疑問など基本的なことから解説してくれて、法も第一条から順番に解説するのではなく、刑罰の種類に関する条文などをトピックごとにまとめています。
こうして条文同士の関連が分かるようになっています。
注目すべきは、一般の六法全書が憲法から書いてあるのに対して、この本は刑法から書いてあるということ。
これは本書の目的が「いじめ、虐待に悩んでいる子供を、法律の力でなくす」ことだからです。
子どもに法律を知ってもらい、大人に悩みを伝え解決してもらうことだからです。
こうして身近な問題を解決するために活用し、そこから同時に他の法律についても理解してほしいと願っています。
こうして法を身に付けた子供たちは自分を守る力を持つだろうし、このことが大人などの理不尽な暴力に対する抑止力、いじめなどを隠蔽しようとする大人のことなかれ主義を封じる手立てにもなるとこの本では考えられています。
もちろんこれだけで完璧に問題を解決できるとは思いませんが、一つの大きな力になることは間違いないでしょう。
このように子供でも分かるように書かれた本書は、子供に限ったものではありません。
いじめにあった子供を持つ保護者や先生、裁判員にあればれた人、知人ともめごとになった大人たちなど、日頃から法は分かりにくくとっつきにくいと感じている人やもっと分かりたいけどどうしていいか分からないという人にもお勧めです。
これをきっかけに親子で法律や社会のルールについて話し合うのもいいのではないでしょうか。
2019.10.15
自分で考えることのできない子供が増えていると言われています。新指導要領では正解のない問題に取り組み解決できる人材の育成というが…。
よく、最近の子供は自分で考えることができないと言われます。
実際、私が生徒と授業で話すときも、答えが絞られないオープンクエスチョンでは「何を言えばいいのか分からない。」と答える生徒が多いです。
(「リンゴとミカンどっちが好き。」のように答えが限定されているのがクローズドクエスチョンで「好きな果物は何ですが。」のように答えが限定されないのがオープンクエスチョン。)
生徒の想像力のなさが原因ともいわれますが、答えを考える前にあきらめることがしばしばあるようにも思われます。
なぜこうなるのでしょうか。
本来、学ぶことは楽しいことです。
小学生低学年では勉強が嫌いという子供はほとんどいません。
好奇心が旺盛な子供は想像力の塊で、大人が思いもよらない発想で物語を話したり、絵を描いたりします。
しかし、学年が上がるにつれ徐々に創造的な活動が苦手になります。
今の教育は評価が重要視されます。
本来教育は子供の成長を目指し、その総合的な成長を評価すべきなのですが、残念ながら現実にはテストの得点による序列が評価になっています。
結果、音楽や絵画など創造的な活動は重要視されず、テストで点数化しやすい数学などの一般に言われる五教科が大切とされます。
入試手も五教科が基本で、それ以外の科目は受験には余計なもので時間の無駄だが学校でやらなければいけないからただやるだけという考えになっています。
五教科でも作文などの創造的な活動は採点に時間と手間がかかるので、テスト対策としては選択問題などクローズドクエスチョンが答えられるようになることが効率的な勉強となっていきます。
例えは「この文章を読んで主人公の気持ちを考えなさい。」という問題があります。
「こんなの分からないよ。こたえられるものか。」という声が聞こえます。
その通り。
でも、「気持ちを考えなさい」だから自分の考えたことが答えであり、そればどのような考えであっても正解です。
にもかかわらず、決まった一つの答えがあってその通りでないと正解ではないから分からないと言ってしまう。
実際にテストではこの手の問題は選択肢になっていて、「主人公の気持ちに最も近いものはどれか選びなさい。」というような問いになっています。
(「最も」と言うのがキーワードで、これで答えとなる選択肢を一つにします。つまり、良さそうな選択肢が複数あった場合、その中で比較して最も近いというのが判定基準になるのです。)
このように普段から与えられたものの中から選ぶように訓練されているから、当然自分から考えるのは苦手になります。
そしてその状況を作り出しているのは、手っ取り早く数値化して序列をつけるという評価方法なのです。
十分に時間をかけてじっくり考えることは許されず、しかも、全員が素晴らしいはダメで優れたものと劣ったものを作らないといけないのが今の教育です。
効率よく点数を取るためには問題を分析し、出題者の意図をくみ取り答えなければいけない。
そこには自分の意見や考えは必要ないのです。
どこに向かっていこうとも、あらかじめ引かれたレールの上を踏み外さずに進み、与えられたゴールにたどり着くことがよしとして刷り込まれている。
(因みに、自分の作品が入試問題に使われた作者がその問題を解いてみたところ、自分の考えていたこととは違うものが答えとされており、全く良い成績を修めることができなかったそうです。)
小学校から大学まで、いや大人になってでさえ、我々は標準化されたテストで与えられた選択肢の中から出題者の意図をくみ取り、それに合わせた答えを選ぶことを要求される。
確かにそれは序列をつけるうえでは手早く公平で、学習と言う意味でもある程度の成果を上げてきたのは否めません。
しかし、学びと言うのはそれだけでなく、もっと開らかれて自由であるべきだとも思います。
一応、今行われている教育改革では知識偏重ではなく自由な発想と論理的思考から自分なりの答えを導き出せることを目標に掲げています。
しかし、にもかかわらず評価方法は以前のままで、数値化された序列です。
正解のない問題に取り組みと言いつつ、試験には正解が用意されているのです。
これは大きな矛盾なのですが、文科省はそれには触れていません。
目的と手段があっていない場合、これまでの知識偏重で得られていた教養さえ失われるのではないかと危惧しています。
この教育の理想と現実が離れすぎているにもかかわらず、その差を埋める手立てがないまま制度を変えてごり押ししていることが問題と考えています。
今回の教育改革では大人の都合で振り回されている子供の姿がとても可哀想に思えます。
葛西TKKアカデミーではこの混乱した現状を踏まえつつ、子供たちが少しでも学びに対して前向きであるように努力したいと思います。
2019.10.11
へこたれない子供にするには。
最近の子供はすぐに音を上げると言われます。
一度やってできなければ「もうダメ。できない。」とか「無理。」とか言ってあきらめてしまいます。
しかし、初めてやって最初からできるなんて普通はありませんし、一度やってできないからとやめてしまえば、その子はそれ以上成長する可能性がなくなってしまいます。
どうしてすぐにあきらめてしまうのでしょうか。
簡単にへこたれない子供にするにはどうすればいいのでしょうか。
ちょっと面白い調査がありいましたので、その結果を踏まえて考えてみたいと思います。
私も子供たちと触れる中で、すぐに子供たちがあきらめてしまう経験を何度もしました。
最初に失敗をする、それ以前に失敗を恐れて初めてのことに挑戦すらしようとしない。
失敗するのは罪で恥、それを避けようと問題に手を付けること、答えを出すことすら拒否する。
こんな子供たちが非常に多いと感じます。
しかし、失敗を恐れて挑戦する力、失敗して落ち込んでもいつまでも引きずらず、また前向きに挑戦できる力は社会に出てからも非常に重要で、就職活動においても「打たれ強さ」に評価の重点を置く企業もたくさんあります。
つまり、「へこたれない力」と言うのは社会で生きるうえでもとても大事なのです。
国立青少年教育振興機構が2016年にある調査を行いました。
それは子供時代の経験が大人になった現在にどのような影響を与えているかを調べたものです。
その中の「社会を生き抜く資質・能力」として「意欲」「自己肯定感」「コミュニケーション力」に加え「へこたれない力」が含まれていました。
調査の結果によると年収800万円以上の家庭では「へこたれない力」の高い層が34.8%いるのに対し、年収200万円未満では20.2%でした。
つまり、年収が高いほど「へこたれない力」も高くなりやすいということが分かります。
また、子供時代と「へこたれない力」の関係を調べていくと、子供のころ親に厳しく叱られたり、褒められたりした経験が多いグループは「へこたれない力」の高い層が35.4%だったのに対し、これらの経験が少ないグループでは10.3%しかありませんでした。
これは親子の間だけでなく、先生や地域の大人との間に関しても同様の傾向がありました。
更に、親に多く褒められ叱られたことの少ないグループと、逆に褒められたことが少なく叱られたことが多いグループを比較すると前者では「へこたれない力」が高い層が30.9%だったのに対し、後者は20.1%でした。
これから子供のときに叱られるより褒められた経験の多い子供の方は「へこたれない力」が高いと考えられます。
子どものときに「基本的生活習慣」「お手伝い」「家族行事」などの経験が多いと「へこたれない力」も高くなり、公園で友達と遊ぶなどの「集団での外遊び」「自然のなかでの遊び」の経験が多くてもこの力は高まるという結果だ出ていました。
つまり、子供のときに様々な経験をし、同世代だけでなく異世代間の交流が多く、しかも比較的褒められる経験が多いと「へこたれない力」が育つように思えます。
都市部では自然が少なくその多様性も少なくなっています。
しかも、SNSやゲームなど外に出ないで特定の限られた人とだけ関わる環境が最近は整っています。
多様な経験を積むにはお金を出さないとできないことも多く、収入との関係もここから説明がつくと思います。
また、社会がスピードを求めるようになり、じっくり考える時間を与えないことも増えてきました。
しかも、テストのように結果はすぐに出て、間違えることを許さない。
何回も何回も失敗を積み重ねつつ、自分からコツや方法を発見したり習得する余裕を与えない。
そうすると最初に述べたように子供たちは間違えを恐れ、間違えると周囲にバカにされるから答えることすら拒否するようになるのも無理はないでしょう。
しかも、何でもスピードが求められ、煩雑なことは敬遠され簡単なものしか受け入れられない価値観が現在は主流となってきています。
だから、すぐにできないものはやらなくなるし、面倒なことは受け入れなくなります。
しかし、人間の成長は失敗の中から学ぶことで起こることが多く、便利さは子供の成長の機会を奪っているのです。
大人が「面倒くさい。」と言うのを聞いて、子供も「面倒くさい」ものを嫌がるようになり、先ほどの間違えが罪で自分のプライドが傷つけられるのが怖い気持ちと合わさって、根気がなるすぐにへこたれる子供が増えていると思います。
叱られ続けると自己否定になり「自分はダメな人間」と思い込み、自分の価値、生きる意味さえ見失うこともあります。
失敗しても挑戦する姿勢をたたえ褒める経験はこれらを防ぎ、失敗を恐れなくて済むから自己肯定感を育てます。
皆さんも子供がすぐにできないからイライラして、つい声を荒げることはありませんか。
「できないとダメ」と思うからそうなるのです。
むしろ、「最初はできなくて当然、できればラッキー、今はダメでのそのうちできるようになればいい。」くらいにいい意味でお気楽に接した方が子供もゆとりをもって学べると思います。
社会的にあくせくして余裕のない時代、便利すぎて時間をかけることに価値を見出さない世の中、お金をかけなければ人間同士も含めて多様な経験がしずらい環境。
なかなか子育てしにくい条件がそろっています。
だから、子供たちがすぐにへこたれるようになるもの無理はないと同情するところが多いです。
でも、これらの要因は大人の態度、工夫、考え方次第である程度軽減できます。
へこたれやすい子供に育つ原因もある程度わかっているので、逆にそうならないように心がけることも可能だと考えています。
葛西TKKアカデミーでは子供たちの間違えで人格を否定したりバカにすることはありません。
常に子供は発展途上であり、最終的に目標に達せられればいいという姿勢で接します。
勉強に限らず、子育てで困ったときは気軽にご相談ください。
テストの問題が解けるだけでなく、子供たちが人間としてプラスな存在になれるように尽力しています。
2019.10.09
英語教育で活用されている「CAN-DO リスト」をご存知ですか。これにより今までと評価基準が変わってきています。
来年度から導入される新しい学習指導要領では、英語力の強化が目指されます。
これまでより文法などの知識をいかに多く知っているかではなく、学んだ英語をいかに実践できるかということに重点を置くようになります。
こうして実際に外国の人々と意見交換などのコミュインケーション能力を高め、国際交流が活発化していく新しい時代に対応できる人材を育てようとしています。
このような状況において「CAN-DOリスト」というものが注目されるようになり、学校の現場でもその評価に影響を及ぼすようになってきています。
「CAN-DO リスト」とは何でしょうか。
これは第二言語習得の場でよく使われるもので、例えば移民した人がどの程度移民先の国において生活に支障なく暮らせるかを調べる時などに使います。
これまでの日本の英語教育のように「知っているか、いないか」ではなく、目的の事柄を「できるか、できないか」という点で評価します。
こうして英語で何ができるのかを指標化し、英語を使った実践力を高めようとするのです。
例えば、英語を使って「買い物ができる」「学校の講義で先生の話を聞いて内容をまとめることができる」「ビジネスにおいて取引先と交渉ができる」などです。
文科省によると、2015年度に中学の約51%、高校のやく70%が英語の評価にあたり「CAN-DO リスト」を設定しているそうです。
しかし、その達成状況を把握しているのは中学の約22%、高校の31%ほどであり、まだ十分に現場で活用されていないことが分かります。
やはり「CAN-DO リスト」というものが先生方の間に十分に浸透しておらず、この新しい評価法を使いこなせていないことが伺えます。
しかし、国の目標とする基準に生徒たちの英語力が届いておらず、更に「書く」以外の「読む」「聞く」「話す」という技能が低くバランスよく身についていないことが文科省の調査によって明らかになりました。
そこで、文科省は小学校から高校までCAN-DO形式の能力記述文で指導目標を示し、授業も基本的に英語で行うことを検討しています。
当然授業内のコミュニケーションは英語で、お互いに英語によって自分の考えを表現し、相手の英語による発話の意味をしっかりと理解できる活動が重視されるようになります。
このようにコミュニケーションによって何ができるかを評価する方法は、これまでのペーパーテストの正解、不正解で得点を決めるやり方とは大きく異なっていきます。
学校では主にロールプレイングのように先生と生徒、または生徒同士で役割を決めて、その与えられたシチュエーションでいかに英語を上手く使って目的を達成できるかを見たり、リポートなどの形でまとまりのある文章を書かせたりして評価をすることになります。
これはなかなか難しいものがあります。
今までなら明確に正解、不正解が分かれかなり客観的に点数化できたのに対して、CAN-DO形式の評価は採点者の主観に大きく左右される可能性があります。
先生の生徒に対する好みや先入観などで個人の点数に差が生まれることが考えられます。
また、評価する人間によってもその評価の傾向に違いがあり、ある先生は非常に高得点をつけやすいのに、ある先生では非常に厳しいということも起きるでしょう。
一貫した評価基準が設けにくいのです。
しかも、長い文章や言語活動を見ないといけないので、採点にかかる時間もこれまでに比べ格段と長くなるでしょう。
更に、目的のことができればいいということは、ある程度文法とかの間違いは大目に見る方がよく、その許容範囲に関しても先生方のさじ加減で評価が変わることになります。
「CAN-DO リスト」を使うということは一度評価して終わりではなく、最終的には目標を達成できるようになるまで指導しないと意味がありません。
今の忙しい学校にただでさえ時間のかかる評価法を導入するわけで、ここまで指導できる余裕があるのか疑問です。
中学、高校まで6年も英語を勉強して英語が全く使えるようにならないという批判がこれまで強く、これまでの教授法の見直しが今回の指導要領の改訂で行われているのですが、その道のりはかなり難しいものになりそうです。
生徒も新しい教育に戸惑うかもしれませんが、それ以上に先生方が対応できず、せっかくの試みも失敗してしまうのではないかという恐れがあります。
個人的にはこちらの方を問題視しており、むしろ子供の方が柔軟性があるので対応はスムーズではないかと思います。
たいていされた英語教育が成功するかどうかは現場の先生方によるところが多く、文科省はただ目標を指示するだけでなく、それを達成し実りあるものにするようにしっかりとしたサポートを生徒のみならず教師にも行うべきだと思います。
もちろん葛西TKKアカデミーもこの新しい英語に対応すべく生徒たちの勉強を支えていきます。
2019.10.07
もうすぐハロウィン、日本でもお馴染みになってきましたが、そもそもハロウィンって何でしょう。
街中はハロウィンに彩られるようになってきました。
クリスマス、バレンタインデーに続き、日本でもハロウィンが定着しつつあります。
最近では毎日のようにニュースで仮装した人たちが町を練り歩くのが見られます。
ところでハロウィンとは何なのでしょうか。
単に仮装を楽しむ日ではありません。
ハロウィンはケルトのお祭りが起源と言われています。
10月31日はケルト人の大晦日に当たり、この日に秋の収穫を祝うお祭りが行われていました。
この一年の終わりの日の夜に、死者の魂がこの世に戻り、また魔女や悪霊が悪さをするとも信じあれ、悪魔払いの意味合いもありました。
時代が下り、このお祭りとキリスト教が融合してハロウィンになったと言われています。
11月1日は「万聖日(諸聖人の日)」というカトリックの祝日で、全ての聖人と殉教者を記念する日とされ、キリスト教でも死者の魂がこの世に戻ってくると考えられています。
魂が帰ってくるという意味では、日本のお盆に似ていますね。
この日にお墓参りをしたり、亡くなった人に祈りを捧げたりします。
なぜ仮装をするのでしょうか。
死者の魂と共に、悪霊や魔物もこの世にやってきて、この世の魂をあの世に連れて行こうとすると考えられています。
よって、お化けの格好をして仲間を思わせて、自分の魂が連れていかれるのを防ぐのです。
だから、女子高生やマリオやスーパーマンなどの仮装は意味なさそうですね。
「トリックオアトリート」はどうして始まったのでしょうか。
元々ヨーロッパで、仮想した子供たちが歌いながら、さまよっている魂のために、「ソウルケーキ」という干しブドウ入りのパンを一軒一軒訪ねらながら集める習慣がありました。
そして、何も差し出さないとこの子供たちや霊がいたずらをすると考えられていました。
1900年代初期にある子供が「Trick or Treat!」と言い出し、1952年のディズニーアニメの中でこのセリフが使われたことにより、世界中に広まったとされます。
仮装をする人は増えていますが、日本ではまだ家を練り歩いてお菓子を集める子供は少ないですな。
各家庭もお菓子を用意していなかったりして。
お菓子メーカーはハロウィンパッケージのお菓子を盛大に売り出していますし、お寿司など関係のない業界も便乗しようと頑張っていますね。
日本ではバレンタインデーと同じように商魂あってのハロウィンでしょうか。
お祭り好きで宗教に節操のない日本では、新たな騒ぎの口実としてハロウィンが広まって見えます。
日常に楽しみを求めるのはいいのですが、くれぐれも行き過ぎのないように、マナーを守って楽しんでください。
こうやって異文化も取り込んで、人々の暮らしも変わっていくのだと実感しています。
お化けにいたずらされないように気をつけて、皆さんもHappy Halloween!