塾長ブログ

2017.06.23

子供が自主的に勉強する接し方

先日この場で、「勉強ができない子供の多くは学校の授業を積極的に受けていない。」と述べました。
つまり、自分から能動的に授業を受けていないので、習ったことが明確に頭に残っていないのです。
従って、テスト前にもう一度やり直さなくてはならず、二度手間になり、
結局時間が無くなり、テストで十分な結果が出ないのです。

だから、普段から主体的に勉強する癖を付けさせることが肝心です。

今回は、そのために家庭でできること、家庭での子供の接し方の注意点を紹介します。

自分で考え決められるように導く
大人は自分の考えを押し付けがちです。
子供が十分に納得できるように説明して、子供もそれを受け入れたならいいのですが、
ついつい面倒で、「〇〇やりなさい。」と言ってします。
これでは子供がやる意味を理解できず勉強がやらされるものになってしまいます。
子供は受動的になり、人に言われたことをやるので、自分の責任転嫁をし、言い訳ばかりするようになります。

勉強を指導するとき、子供と大人の関係を見直す必要があります。

学校でもそうですが、多くの場合、大人は子供を足りない者と考え、
「教えること」は大人が足りないものを与えることと考える。
結論を急ぎ、子供に考える時間を与えず答えを教えてしまう。
答えを教えるのは簡単で早いから、教える方も教わる方もそれを当然と思ってしまう。
でも、これでは子供が考える時間を奪ってしまうことになり、主体的に学ぶ生徒にはなりません。
焦って教えて、その場で答えることはできても、
結局自分で考えていないので、真の理解にはつながらず、
ましてや既習事項を用いて応用することはできません。
勉強が依存体質になっているので、与えられないと何もできないのです。

では大人はどのように子供と接すればいいのでしょうか。
いくつか方法はありますが、とりあえず一つ述べたいと思います。

先ほどの「与える」という大人の立場を「促す」に変えるのです。
子供は「足りない」のではなく、「持っているものを伸ばす」という立場です。
答えを教えるのではなく、ヒントを与える。
解答を導き出せるように促すのです。
「こうだったらどうなると思う。」
「他にどんな方法があるかな。」
「例えば、こんなのはどう。」
という風にヒントを与える。
答えにたどり着けるように誘導してあげるのです。
こうすれば生徒が自分で考える余地ができます。

このような接し方は勉強そのものだけに限りません。
勉強に仕向けるのにも役に立ちます。
「勉強しなさい。」と言うのではなく、
「勉強はいつする。自分で計画を考えようか。もちろん休憩も計画に入れてね。」
と言う。
こうすると子供は自分で考え、与えられるものではないので、自分に責任を持つようになります。
時間になれば自分から勉強するようになり、無駄にがみがみ言う必要がなくなります。
「今やろうと思っていたのに。」
なんていわれることもなくなるでしょう。
親もいつ勉強して、いつ休憩するか分かるので安心です。
上手く計画がいかなければ、一緒に考え相談役、アドバイザーとして助言をする。
しかし注意してほしいのは、最終的に計画を決めるのは本人だということです。

このような接し方は受験校を決める時や、その他の人生の選択を考える時、様々な決断の場面で重要です。
主体的に行動できると、何をしなければならないかが自分で分かるようになります。

そして、その結果は本人の自信につながり、更なる向上心が芽生えます。
これは学校の勉強も含めた人生の勉強として、非常に大切なことです。

言いたいのは分かりますが、そこを踏みとどまって、子供自身に考え決めさせてください。
遠回りで面倒くさそうですが、長い目で見ると近道なのです。

2017.06.18

叱るということ

体罰である高校のサッカー部のコーチが解雇されました。

葛西TKKアカデミーの生徒たちの話を聞くと、
やはり彼らの学校の先生の不適切な対応が見受けられます。
学校という閉鎖された空間で、外部の目が届きにくい特質上、
この不適切な対応をなくすことは難しいように思えます。
全ての先生がそうというわけではありませんが、
どう考えても先生の対応が理不尽である場面が多々見受けられます。

体罰
私が子供のときは、正直、今でいうところの体罰はよくありました。
「本人のため」という名目である程度の先生の体罰が黙認されていました。
本当に先生が生徒のために信念と責任を持って、
適切に行うという前提のもと許されていたのでしょう。
そして、生徒も自分のために指導してくれているという信頼があるから、
多少の体罰も甘んじて受けることができたのでしょう。

しかし、その信念と責任、そして信頼関係が疑わしくなり、
生徒を支配するための暴力となることが往々にして起こりました。
この現実から、体罰はどんなことでも許されないというのが今の教育の方針です。
でも、表面化していない暴力(肉体的または精神的)は今も日常的にあります。
私は実際に生徒と接しているので、このことは断言できます。

「叱ること」と「怒ること」
大事なのは「叱ること」と「怒ること」を混同しないことです。
「叱ること」は生徒のために、生徒のことを考え、生徒をプラスに導くために行います。
一方、「怒ること」は自分のために、自分の立場・都合をよくすることを考え、自分を守るために行います。

「生徒のため」と言いつつそうでないことが、客観的に見るとよくあります。
思う通りに生徒が上手くならないから、そのストレスを生徒に怒ることで発散する。
(これは指導力不足が根本の要因と思われますが。)
自分が間違っているのに、立場上認めたくない自尊心がそれを許さない。
怒鳴る理由はこんな感じではないでしょうか。
しかも渦中にいるときは、自分でそれが気づかなかったりします。

指導者という立場で権威を持たされると途端に
自分が上で生徒は下だという変な上下関係を作り出してしまう。
だから、自分の思い通りにならないと怒る。
生徒が自分と違う意見を言うと、侮辱されたように思う。
口答えされて反抗されたように感じる。
生意気だ、気分が悪い。
だから怒って自分の強さを誇示したい。

でも、怒って表面上生徒を従わせることができても、
生徒の心はついていきません。
関係も表面的になり、指導の本当の目的は達成できません。

怒っても問題は解決しません。
むしろ険悪な状況を作るだけです。

大切なのは相手に理解させること。
冷静になり、大人として大きな心で生徒の気持ちを想像し、
客観的に状況を分析し、最善の方向に導くことです。
つまり、「叱る」には怒る必要もないし、怒鳴ったり体罰を行ったりする必要もないのです。

正しく叱る
いくら生徒のためを思い叱っても、状況把握を間違っていれば、
生徒は理不尽に思い、不信感を抱きます。
これではいけません。
だから、叱るのは非常に難しいのです。

正しく叱るにはどうすればいいのでしょうか。
先ず冷静になること。
そして、正確に状況をつかもうと努力することです。
自分で勝手に思い込んでしまってはいけません。
常に自分の状況判断が間違っているかもしれないと謙虚になることです。
だから、叱る前に生徒の言い分をきちんと聞いてあげることが大切です。
もし複数の人間が関わっているのであれば、全員の言い分を聞かなければいけません。
面倒だと言ってはいけません。
そのくらい慎重にならなければいけません。
目的は楽をすることではなく、生徒を導くことなのだから。

更に、大人として広い心で接することも忘れないでください。
発展途上にある子供たちです。
過ちもあるでしょう。
でも、それを責めて心に傷を残すのが叱る目的ではありません。
過ちを大目に見るゆとりが必要です。

よく子供相手に理屈で論破しようとする人がいます。
(あたかも論破して優越感に浸りたいような。)
相手は語彙も経験も少ない子供です。
まともに討論すれば負けるのは当然です。
子供を負かせて、「自分はダメだ。」と思わせ、
「自分の理は完全に否定された。」と思わせるのも叱る目的ではありません。

子供にも自分なりの道理があります。
それを分かってあげることも大事です。
これは多くの生徒に接した経験から分かります。

子供の考え方自体は間違っていないのですが、文脈において合わないことが多分にあります。
そんな時、大人の理屈を押し付けるのではなく、
子供の目線に立って、「なるほどそうだよね。だけどこの場合、この方がいいんじゃないかな。」
と提案するのはどうでしょう。
そうすれば子供の側に立ってくれたと安心し、心を開いて話してくれるし、
こちらの言うことも聞くようになります。
そして提案すれば、それについて考え自分で判断するようになります。

結論を与えるのではなく、自分で決めさせるのが重要です。
正しい結論にたどり着けるように導いていく。
これが指導という意味においての正しく「叱る」ということです。

 

 

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2017.06.16

期末テスト お疲れ様でした

期末テストお疲れ様でした。

 

今回はみんなよく頑張っていました。

本当に毎日頑張った人もいますし、まだまだ不十分な人もいました。

でも、自分なりに努力していたと思います。

 

とりあえず今日はゆっくり休んで、明日からまた頑張りましょう。

これで終わりではありません。

特に三年生はこれから本格的に高校入試の準備に入っていきます。

勉強も今まで以上にきつくなります。

こちらもそれぞれの状況を最大限尊重しますが、

それに甘えることなく、悔いのないようにしてください。

 

一生に一度くらい、「思いっきり勉強した。」と言えるほど勉強するものいいでしょう。

2017.06.07

書籍紹介 『中学生の成績が上がる! 教科別ノートの取り方』

本日紹介するのは『中学生の成績が上がる! 教科別ノートの取り方』(小澤 淳 監修)です。

 

生徒やご両親からよく聞くのは「勉強の仕方が分からない。」ということです。

 

各教科の勉強を解説する参考書や問題集はたくさんあります。

でも、勉強の仕方を書いている本は少ないです。

 

この本はカラーで見やすく、ポイントを提示して簡潔で分かりやすく説明してあります。

5教科別にノートの書き方が書いてあり、それぞれの教科で何に気を付けてノートを取るべきか分かります。

更に、この本の特徴として、実際の生徒たちのノートが見られるということです。

このような具体的な見本があると、どのようにノートを取ればいいのか非常に参考になります。

 

 

勉強の仕方は人それぞれ。

ノートの取り方も人それぞれです。

だから、これが絶対という方法はありません。

しかし、このように具体的な見本があれば、それを真似てやってみることは簡単です。

やってみて、その方法が自分に合っていればそれでOK。

だめならば別の方法を試せばいい。

実は勉強法というのは、実際にやって失敗を繰り返し、

その中で反省改善して自分で自分に合ったものを見つけるしかないのです。

 

従って、この本に書かれていることをやればいいというより、

この本をきっかけに自分流の勉強法を創造するという活用法が有効でしょう。

 

とは言え、ここに書かれたことは、ある程度誰にでも当てはまることが多いので、

非常に参考になると思います。

 

葛西TKKアカデミーでも勉強法の指導を行っているので、

どうやって勉強すればいいか困っている方は、是非ご相談ください。

 

2017.06.05

面白い記事を見つけました

面白い記事を見つけたので紹介します。

ちょっと笑えます。

 

あのドナルドをひっくり返すと別のドナルドになります。

誰か分かりますか。

今、世界を騒がせているあの人です。

「B3ta」という海外のブログより

 

 

「かるた」じゃなくて、「カード」じゃなくて・・・。

あっ、「トランプ」だ!!!

 

2017.06.05

テラリウムに挑戦

葛西TKKアカデミーは生徒の勉強がはかどるように
教室内にも様々な工夫を凝らしています。
本日、新たに観葉植物が教室に仲間入りです。


ガラス容器があったので、テラリウムに挑戦。
初めてだったので、ちょっと失敗。
作る手順を間違えました。
でも、見た目は問題ないかな。
後は、枯らさないようにしっかりお世話しなくてはいけませんね。

この他、勉強しやすい環境を作るために様々な工夫をしています。

入り口にも観葉植物のパキラなどが置いてあります。


緑を見て心が癒されます。

教室は清潔感のある白を基調にしています。

リラックスできるように常にBGMが流れています。

集中力を高めるため、柑橘系のアロマを置いています。

常に生徒のことを考え少しでも良い塾となるため、
葛西TKKアカデミーは工夫と努力を怠りません。

 

2017.06.01

あるお母さんからの質問「定期テストで成績のいい子と悪い子は何が違うのか」

先日、あるお母さんから次のような質問を受けました。

 

「うちの子はテスト前に一生懸命やっても成績よくないのに、
できる子はテスト前、大して勉強しなくても点がいいんです。なぜでしょうか。」

 

個人の状況にもよるので一概に言えませんが、次のように答えました。

 

「できる子は、その時その時の学習内容を授業中に吸収しているからです。」

 

授業中に、その都度内容を理解し身に付けていれば、テスト前に慌てる必要はありません
確認さえすれば十分です。
学校の定期テストは授業内容が中心なので、これでいいのです。

 

同じ授業を受けても、ただ聞いているだけでは、習ったことも右から左に抜けてしまいます
だから、頭に残らない。
だから、テスト前にもう一度、一からやらないといけない。
全ての教科でそうならば、テスト一週間前からやっても間に合わないのは当たり前です。
大抵、課題のワークを終わらせるので、精一杯。
内容の定着まで手が回らない。
だから、テストの点は上がらない。

 

更に悪いことに、間に合わせの勉強で内容が身についていないので、
テストが終わると全て綺麗に忘れてしまう

 

だから、また同じことを勉強し直さないといけない。

二度手間。

だから、面倒くさい

(以前にも話しましたが「面倒くさい」は大人に限らず子供を理解するキーワードです。)

勉強へのモチベーションが上がらない

だから、やらない。

成績が上がらない。

では、できる子は頭がいいから授業の内容をその時に身に付けられるのでしょうか。

 

答えは「NO」です。

問題は頭の良さではありません。(何が頭の良さかと言う問題もありますが。)

 

できる子は積極的に聴いているのです。

受動的にただ聞いているのではありません。
授業中集中して少しでも理解しようと努める姿勢が大事です。

 

具体的にどうすればいいのでしょうか

例えば、先生が言っていることを頭の中で復唱するだけでも、
頭に残る度合いは違います。

また、自問自答しながら聞くのも有効です。
「これはどういう意味なんだ。どうしてそうなんだ。」と。

黒板に書かれたことしかノートに書かない子供がいますが、
できる子は書かれていなくても、大切だと思えば、先生の言ったことを書くのです。

分からないときはその日のうちに質問して解決するのもいい方法です。

他にもありますが、とにかくただ聞くのではなく、主体的に聴くのです。

 

その日の夜に、一日の授業風景が思い浮かべられたら上出来です。

 

先生がつまらなく、聞く気にならないかもしれません。
それでも何か学ぶことはあるはずです。

つまり、大切なことは毎回の授業を無駄にせずしっかり受けるということです
そして、無駄にするかどうかは生徒次第です。
無駄にしていると、結局手間ばかりかかって、肝心なテストの準備ができなくなるのです

 

 

2017.05.28

こんな先生は嫌だ

日々、生徒と付き合っていると、彼らが非常に不満とストレスを抱えていることが分かります。

丁度思春期に当たる彼らは、それまでの子供から大人への過渡期において、様々な矛盾に直面し悩み苦しみます。

今まで単純に正しいとしてきたことが、現実に通らなかったり。

実は悪いとされてきたことをした方が得をしたり。

本音と建て前。

信念が揺らぎ、純粋な子供の明確な善悪が通用せず、大人の汚い現実が見えてきます。

純粋に正義であろうとする生徒は抵抗を試み、しかし大人の力に負けてしまう。

結果、要領よく表面だけ合わせることを覚えたり、失望して生気を失ったり。

疾風怒濤、紆余曲折。

あちこちぶつかって、成長していく時期です。

 

当然、彼らから愚痴や不満をよく聞きます。

そういうはけ口がないと、心が圧し潰されてしまいますから、聞き役になるのですが。

 

でも彼らはわがままに文句を言っているわけではありません。

そこには彼らなりの筋があり、正義があるのです。

それを聞かず、無視して押し付けるような大人の対応はやはり不適切でしょう。

それを踏まえたうえで上手に説明、説得できなければ教育とは言えません。

 

今回は、そんな彼らの先生に対する批判、不満を聞いてみました。

題して「こんな先生は嫌だ」。

後でリストしますが、かなりあります。

一見矛盾しているようなものもありますが、それはその文脈においての意見なので、全体として見るより、一つ一つの場面における見解と考える方がいいです。

 

もちろん生徒に好かれる先生、優秀な先生もたくさんいらっしゃいます。

しかし、そうでない先生がいるのも事実です。

これは真摯に受け取った方がいいでしょう。

 

全体をまとめると、生徒が嫌う先生にはいくつかのパターンが見られます。

今回は五つほどまとめました。

実際はまだあります。

これらのパターンを踏まえ、生徒と接するときに気を付けていきたいと思います。

これは先生のみのでなく、広く大人一般が子供に接するときに当てはまると考えてた方がいいでしょう。

 

1.不公平

多くの生徒が不公平や不当な扱いに怒りを覚えるようです。

 

「勉強ができる生徒とできない生徒で扱いが違う。」

「差別する。」

「裏表がある。」

「お気に入りを作る。」

 

人は公平に扱わなければいけないと教わったのに、肝心の先生がそうでない。

気を付けなければいけません。

私が思うにこの問題の根底には、生徒を対等の人間とみて尊敬していない、教える者と教わる者の間に上下関係が存在するという考えがあるのではないでしょうか。

口では平等と言っても、この考えがあるから、実際の行動で違うことをする。

子供たちはきちんと見ています。

しかし、学校という閉鎖された空間は、外部のチェックが入りづらいので、人格尊重を損なったとしても指摘されることは難しい。

だから、不公平は見過ごされまかり通ってしまう。

そうして知らず知らずのうちに、不公平に対して鈍感になっていくのでしょう。

経験から言うと、彼らから学ぶこと、彼らに気づかせてもらうことは非常に多いのです。

むしろ、上下関係を捨てて対等になった方が信頼関係も深まり、生徒との建設的な関係が築け、こちらの精神的にも楽です。

自分が先生だから偉く、子供たちは馬鹿だから見下すような態度は改めましょう。

筋が通らないことに子供は敏感です。

それが現実と教えることも大事です。

でも、問題はどのように教えるか。

教え方まで理不尽である必要はありません。

 

2.自己中心的

先ほどのこととも関わるのですが、教育において先生は多くの権限を与えられています。

しかし、それを自分のためだけに使えば、それは濫用と言わざるを得ないでしょう。

 

「生徒をパシリに使う。」

「自慢話をする。」

「なれなれしい。」

「気分屋」

「生徒に八つ当たりをする」

 

これは他者に対する気遣い、思いやり、つまり、相手の立場に立って考えることができないのが原因でしょう。

立場上、生徒を動かすことができるので、ついつい生徒を道具のように考えてしまうのでしょうか。

相手に感情があるということを忘れてしまう。

これも注意しなければなりません。

相手の気持ちを無視した不用意な行動や発言がどれだけ生徒を傷つけるか。

こちらが冗談でも、相手はそうは思わないということを理解する必要があります。

相手への配慮の欠如が、先生の生徒へのいじめになることに気を付けなければなりません。

そんな先生を生徒は信用しません。

信頼関係がなくなれば良好な人間関係は築けません。

いつでも生徒のことを考え、自分の行動が相手にどんな影響を与えるか考えるに越したことはありません。

相手の気持ちを想像する力、特に繊細な心を持つ、この時期の生徒に接するときは不可欠です。

権限を与えられているということは責任も与えられているということです。

学校という閉鎖された組織の中では責任の追及がされにくく、しかも相手が子供だというと無条件に先生に理があると思われがちです。

常に誠実で、客観的に物事を見る態度で臨まなければ自己中心的になるので自重しましょう。

 

3.自分を押し付け、生徒の話を聞かない

先生の立場上、常に自分は正しくなければならないと考えるのでしょうか。

例え自分に非があったとしても認められない。

それは生徒にとっても先生にとっても不幸です。

 

「自分の考えを押し付ける。」

「生徒の話を聞かない。」

「自分の間違えを認めない。」

「自分が全て正しいと思う。」

 

人は完璧ではありません。

先生も然りです。

先生が間違ったとき、その誤りを素直に認め改めることができるか。

ごまかしたり、強引に認めさせたりしても、生徒は先生の誤りに気づき、内心は分かっています。

自分の誤りを認められない人間を生徒は軽視します。

当然です。

それは反って、先生の威厳を損なうものです。

考えに絶対に正しいということはなく、立場や状況で見方は変わります。

自分以外の考えを認め尊重することも大事です。

もし、自分の考えを通したいなら、それは説明し導き、生徒が自ずから同意するようにしなければなりません。

自分が先生といえども完璧な存在でなく、日々学び成長する人間であると認めた方が、先生としても気が楽だと思います。

 

4.器が小さい

自分は大人で相手は子供、なのに子供と同様に言い争いをする。

子供の過ちを受け止め、改善のために導く余裕がない。

こんな先生は器が小さい、子供じみているとみなされます。

 

「小さいことにすぐ起こる。」

「生徒に厳しく、自分に甘い。」

「突然怒り出す。」

「質問に行ったら教えてくれない。」

「実際にはやっていないのに偉そう。」

 

とにかく小さなことで怒ったりグチグチ言うのは嫌われます。

子供の言葉を真に受けて怒鳴るのも大人げない。

怒るのと叱るの区別がつかず、自分のストレス発散のために子供に大声を出すのもよろしくない。

相手は子供なのだから、当然論争すれば大人が勝つ。

だからこそ子供の言い分を聞いて諭す余裕がほしいとこですが、ムキになって論破することが目的となってしまう。

これは教育でも指導でもありません。

こんな先生には子供も冷めてしまって、関わりたくなります。

子供との接点が失われれば、先生は教師としての責任を果たせなくなります。

すぐに頭に血が上る人は気を付けましょう。

冷静になって、生徒たちのどんな理不尽な要求でも受け止め、対処できるようになりたいものです。

これは生徒の言いなりになるという意味ではありません。

生徒の声を聞いたうえで、大人としての正しい態度が取れるようになるということです。

 

5.教えるのが下手

生徒が分からないとき、「なんで分からないのか。」という人がいます。

でもこれは生徒の責任でしょうか。

分からせることのできない先生の責任ではないでしょうか。

そして、教師の本分を考えたときこれは致命的です。

 

「質問をしても答えない。」

「授業中の雑談が多い。」

「授業の進みが遅い。」

「授業を忘れる、なくなる。」

「授業が早い、生徒を置いてけぼり」

 

授業進度は本来カリキュラムで計画的に作られているはずで、それに従えば早すぎたり遅すぎたりすることはありません。

恐らくそれを無視しているのでしょう。

毎年、それまでの遅れがたまって、三年生の最後は駆け足になっています。

更に、授業も教えるというよりやるという形になっていることがあります。

つまり、生徒が分かったかどうかは関係なく、ただ教科書に書かれている内容に触れただけ。

生徒が分かるような工夫をしたり、どうすれば分かるようになるか反省する態度が欠けているのです。

そして、生徒が理解できないのは自分のせいでなく、分からない生徒が悪いというのは責任転嫁としか言いようがないでしょう。

 

 

生徒が嫌う先生一覧(実際に私が生徒から聞いた声です)

差別

お気に入り

すぐ触る

裏表

声がでかい、怒鳴る

小さいことに怒る

声が小さすぎる

自分の考えを押し付ける

自分が全て正しい

授業が早い、生徒が置いてきぼり

パシリにする

不公平

理不尽

生徒の考えを聞かない

質問しても答えない

自分の間違いを認めない

生徒に厳しく自分に甘い

人を馬鹿にする

授業中の雑談が多い

公私混同

授業がつぶれる

字が汚い

授業が分かりづらい

授業の進みが遅い

無責任

時間を無視する

授業を忘れる、なくなる

突然怒り出す

自慢話

雰囲気がうざい

なれなれしい

無視する

くさい

授業中暇なときに関係ないことをする

質問に行ったら教えてくれない

言葉と行動が矛盾

人を傷つけることを言う

親にチクる

しつこい

気分屋

話すたび唾が飛びまくる

話の内容がいつも同じ

挨拶を無視する

生徒に八つ当たりする

「帰れ」とすぐ言う

実際はやっていないのに偉そう

2017.05.28

東葛西中学校の運動会に行ってきました

6月27日、家族を連れて東葛西中学校の運動会に行ってきました。

 

天気にも恵まれ、まさに運動会日和でした。

私は午後から見に行ったのですが、多くの家族連れでにぎわっていました。

 

部活対抗リレーは文化部はコミカルメインで、

運動部は本気のリレーでとても面白かったです。

 

他にも徒競走や大縄跳びなど様々な競技が行われました。

 

どのチームも一致団結して頑張っていました。

本気で楽しんでいるのが分かります。

きっといい思い出になったことでしょう。

 

運動会が終われば期末テストが待っています。

体を休めたら、気持ちを切り替えて、テスト勉強に集中しましょう。

 

2017.05.25

大学入試改革 英語四技能(特に「話す」)を評価するとは

2020年から大学の入試制度が変わります。

それに向けて学校教育は様々な準備をしています。

 

2020年 大学入試が大きく変わります

 

試験内容もいろいろ変わる予定ですが、今回はその中でも英語に関して考えてみたいと思います。

中でも目に付くのは、今までの記述読解とリスニングのテストに「話す」が加わること。

(言語には四技能があって「読む」「書く」「聞く」「話す」から成り立つ)

「グローバル化に対応したコミュニケーション能力の育成と評価」として、異文化コミュニケーションできる、発信能力のある人材が必要との観点から導入されたようです。

 

ただ具体的にどのように「話す」を評価するのかはよく分かりません。

高校の授業評価や英検などの民間のテストを利用する案もあるそうです。

また、全国学力テストでは情報端末に英語の質問に回答したものを録音しそれを民間に評価してもらうそうです。

果たしで全国から集まる生徒に対し、全員に音声回答させ、短時間で公平に評価できるのでしょうか。

採点はどのような基準で行うのでしょうか。

採点者がそれぞれの主観で採点するなら、それは公平性に欠けます。

発音という目に見えないものに、どのように明確な基準を設けて判断するのでしょうか。

 

また、「話す」を評価に入れるということは、学校ではそれに対する授業を行わなければなりません。

他の技能と違い「話す」はフリーライドが難しい技能です。

つまり、他人がやるのを見て、それを参考に自分の能力にしていくことが難しいのです。

発音は一人一人が実際に声に出さないと上達しません。

会話も相手がいて、その相手の返事に応じて自分も答えられないといけません。

教室のような大人数での授業には向いていないのです。

この難問を現場はどのように解決すればいいのでしょうか。

 

問題は山積で本当に大丈夫なのかと不安です。

期限は決めれれていて、結局間に合わず、その場しのぎの対応になって、文部科学省の掲げる目標が骨抜きになるのではないでしょうか。

なんだか「ゆとり教育」のことを思い出さずにはいられません。

 

 

私が思うに一番の問題は、「コミュニケーションを形式を満たすこと」と勘違いしていることではないでしょうか。

恐らく今まで通り、出題者が設定した通りの解答をした生徒が高評価を受けることになるのではないでしょうか。

どれだけその型にはまっているかで判断する。

確かにそうすれば点数は付けやすい。

例えば、発音がどれだけネイティブに近いか。

恐らく、このネイティブというのもアメリカ人、せいぜいイギリス人かオーストラリア人の英語でしょう。

でも、実際の英語はもっと多様で発音や表現もかなりバリエーションがあります。

グローバル化と言いつつ、結局一部の母語話者に合わせることを重視しているのです。

これはグローバル化と根本的にマッチしていない。

 

それに学校で教える会話やコミュニケーションは、実際の英語生活においては非常に限定的である。

いくら学校で教わったことが分かっても、実際の英語生活では全く役に立たない、分からない。

習ったことを使おうとしても使えない、使う機会がない、まったく別の状況が発生している。

海外生活を経験したことある人ならよくあることでしょう。

更に、たとえ英語が理解でき話す能力があったとしても、話す内容がなければ、結局黙ったままになってしまう。

近なのでは積極的に英語の技能を活用し、主体的に考え表現できる人材になるのでしょうか。

 

コミュニケーションとは何か、言語を学ぶとはどういうことか。

これら根本的命題にはっきりと答えを出してからでなければ、結局理想論で失敗に終わると思います。

コミュニケーションとは授業でやるようなきれいごとではありません。

それぞれが思惑を持ち、様々な戦略を張り巡らし、個々の目的を達成するために行うものです。

それは状況や文脈で無限に変化し、その変化に対応しつつ、自己の利益が最大限になるように拡大できなくてはいけません。

そんな型にどれだけはまるかというのがコミュニケーションではありません。

それは生きているのです。

そうであれば評価の仕方も教授の仕方もこれでは全く駄目です。

例えば生徒に課題を出して、それをいかに達成できるかを見る。

単に短いフレーズが言えるかではなく、相手との相互作用の中でいかに相手を理解し、そして説得して目を達成できるかで見るべきです。

そこではきれいな文法で完璧な発音などは、大して問題ではない。

身振り手振りでいいんです。

目的を達成できれば。

みんなが同じ解答でなくていいんです。

 

以上の点を踏まえれば、この「話す」技能が入試テストといかに相性が悪いか分かります。

文部科学省は、そして学校はどのように対応するのでしょうか。

私がざっと考えただけでも、これだけの問題点を指摘できます。

問題の予防と発生した時の対応は整っているのでしょうか。

現場は混乱なく自信を持って新制度を導入できる状況になるのでしょうか。

 

お手並み拝見です。

 

ただし一つ忘れてほしくないことは、うまくいかなかったとき一番の被害をこうむるのは生徒だということ。

そして、その責任をどのように取れるのかということ。

ゆとり教育を受けた世代は「ゆとり世代」などと言われ、世間の人間的評価が低く見られています。

レッテルを貼られているわけです。

改革結構、理想も結構。

ただしやるからには万全の準備をして、必ず成功すようにしてください。

多くの子供たちが犠牲にならないようにしてください。

 

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